トンミはやはり一人でたんたんと行動している日本かぶれの<孤立者>だが、
「日本かぶれ」という風狂=自己投企(=自己同一化への唯一の突破口)のようなものが、
サチエとのコミュニケーション=conviviality(共感・共愉・共有)の扉をうっすらと開く。
つまり「ガッチャマンの歌の歌詞を知っていますか」の呼びかけの一言だ。
些細で、普遍的にはほぼ無意味だが、時代の共有・共生感覚、のようなものが、
個人には、とても大切な意味を有する、
他者との唯一の狭い通路、である、か。
(食においては共食共同体=食の家族、の経験、であるか)
文明ではない、「文化」(司馬遼太郎的な)の共有が、人を生かすものである、か。
また最初にサチエが自分から開く他者との接点は、
同じく日本から、ほぼ無意味にフィンランドへ来て、
何の予定も計画もない若い女性ミドリと書店のカフェで偶然出会い、
思わず、ガッチャマンの歌詞を聞くことである。
■食の身体性・自立性
かもめ食堂を手伝うようになったミドリは、
あまりの客の少なさに、
旅行者向けのガイドブックに掲載することをすすめるが、
サチエは、「ガイドブックを見てくる日本人とか、
日本食といえばスシだと思っている人はこの店のにおいと違う。
レストランではなく食堂なのだ」
とにべもなく断る。
他律的な借り物(他律食)でない、
身についた身体性となった食(自立食)が求められている、のだ。
孤立し分断された個我は、それゆえ時代や社会の文化や、
他者や自分をよく見、感受しうる。
孤独になった個、裸体の自分、
が直截に時代や社会や他者や自分と対峙して
自力で感じとられたもの、戦いとられたもの、
だけが、「わがもの」であり身についたもの、である。
ならば、人を癒し、包み、共感させてくれる農村的共同体が根底から消滅した現在は、
個人が、自分の食について自立することが不可欠で大切な時代だ。
そしてサチエは、「この世の終わりって時には、おいしいものを食べたい。
好きなお酒を飲んで好きな人を呼んで…」
「共食共同体」、の夢を語ってみる。
自立食から、自立した個人の共食共同体への通路が夢見られる、のだ。
■おにぎりとはなにか―自立食の固有性と文化性
それでもミドリは、フィンランドではフィンランド人の好むものを出すべきでは、と、
おにぎりにトナカイの肉(ロースト?)、ニシン(オイル漬け?)、
そしてザリガニ(ボイル?)といった
フィンランドの国民食を使うことを提案する。
作って、食べてみるが、
サチエは、おにぎりには合わない、とにべもない。
サチエにとっておにぎりは、父の思い出に繋がる思い入れのある固有の食べものだ。
かつて食べた、日本の固有の食文化にくるまれた、
父の作ってくれた固有のおにぎりでなければならない、のだ。
(数少ない、サチエの、そして荻上の執着の一つだ)
固有性は文化だ。
固有性こそが他者の通路をつなぐもの、であるはず、なのだ。
■シナモンロールとコーヒー(コピ・ルアック)―メディアとしての食
フィンランド人はコーヒー好きだ。(一人当たりのコーヒー消費量が世界で一番多い)
フィンランド人は、コーヒーと一緒にシナモンロールを食べる。
ある日、一人の男がやってきて、おいしいコーヒーの入れ方を教えていく。
おまじないのコトバは「コピ・ルアック」だ。
コピ・ルアックは、「幻の」とも言われるコ−ヒー豆だ。
「ルアック」(=ジャコウネコ)は好んで甘みの強いコーヒー豆を選んで食べるが、
完全には消化されずに、おなかの中で「良い加減に」調整して、ふんとして排泄する。
この豆を仕上げて、製品化したものが、コピ・ルアックだ。
薫り高く、風味豊かな絶品、といわれる。
(ジャコウネコそのものが減少したので幻のコーヒーとなった)
また、サチエは、フィンランド風おにぎりは受け付けなかったが、
翌日シナモンロールを作った。
風味豊かなコーヒーと、
甘やかで、爽やかなシナモンロ−ルの香りは、
店の外で中をうかがう、フィンランドの老婦人たちに届き、心を開き、
中へと導いた。
普通のフィンランド人がお客となった。
文化は徹底して固有性の根を持つものである。
折衷は、結局双方とも中途半端なのだ。
フィンランドに徹して、初めて「日本」への通が開き、
「日本」もまた、フィンランドに受け入れられてゆく。
固有性は文化だ。
固有性こそが他者の通路をつなぐもの、真のメディアであるはず、なのだ。
現実から拒絶されて(夫=他者に出て行かれて)、
絶望と悲しみに絶えられず泥酔し、
サチエたちにも酒を無理強いする孤独な老婦人は、
飲みつぶれるまで飲んではじめて仲間になる。
彼女の叫びのようなグラスを受けてたった、マサコの飲みっぷりは、
ヒトを仲間にする飲みっぷり、だ。
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日本での両親を介護する生活に区切りがついてしまい、
生きることの、プラットホーム(となる共同性)も、意味も喪失したマサコは、
なんとなく、(ほぼ無意味に)フィンランドに来たものの
大きなカバンを空港でなくし、
フィンランドの風土的基盤である森で見つけた大量のきのこをも、
どこかになくしてしまうが、
なくしたきのこは、
なくしたと思っていたカバンの中にぎっしり詰まっている。
あるはずのものはなく、なくしたと思ったものはここにある。
あるはずのものがなくても、人は大して困りはしない。
文化も風土も、過去にも現在にもこだわりはあるが、なくなったとしてもたいしたことはない。
人は、あるがままに生きる現場で、他者と出会い、
他者との出会いを通じて
自分の「文化(リテラシー)」を作り上げてゆくもの、だからだ。
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さて、「コピ・ルアック」とつぶやいて、コーヒーを入れよう、か♪