ブログ再開・最近読んだ本Cとりあえずリストで

2010年06月02日

遅々としてブログ化が進まないのでとりあえずリストで。
全部を読了したわけでもなく、丁寧に読んだわけでもないが、何かは残っている。

いずれ丁寧に取り上げて行きたい。

     ※     ※     ※

瀬尾育生・稲川方人『詩的間伐 対話2002-2009』思潮社2009年10月15日3500円+税、宇野弘蔵『恐慌論』岩波文庫2010年2月16日780円+税、藤井貞和『源氏物語の始原と現在 付 バリケードの中の源氏物語』岩波現代文庫2010年2月16日1100円+税


柄谷行人『思考のパラドックス』第三文明社1984年5月31日第1刷6月30日第3刷1800円+税→720円、川本隆史『共生から』岩波書店哲学塾2008年4月24日第1刷1300円+税→680円、レイチェル・カーソン『沈黙の春』新潮文庫昭和49年2月20日発行平成16年6月25日62刷改版

ミシェル・フーコー著中村雄二郎訳『知の考古学』改訳初版1981年2月10日、改訳新装初版1995年8月25日、新装新版2006年2月28日、新装新版第3刷2008年9月1日3500円+税

東浩紀『郵便的不安たち』朝日新聞社1999年8月1日第1刷2002年7月20日第5刷2600円+税

大塚英志『初心者のための「文学」』角川文庫平成20年7月25日初版発行原本2006年角川書店667円+税、大塚英志『彼女たちの連合赤軍』角川文庫平成13年5月25日初版平成20年7月10日4版原本1996年12月文芸春秋社、大塚英志『木島日記』角川文庫平成15年3月25日 初版平成16年6月20日三版 原本平成12年7月角川書店552円+税

橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』ちくま文庫2006年5月10日第1刷2009年2月5日第5刷780円+税・原本2001年6月筑摩書房、

鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫2000年5月10日第1刷2007年1月22日第18刷960円+税→525、原本1983年『日本二千年の人口史』PHP研究所

笠井潔『例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』朝日新聞出版2010年3月30日(初出角川トリッパー2006年春季〜2008年春季)4000円+税、ヘーゲル・伴博訳『キリスト教の精神とその運命』平凡社ライブラリー1997年8月15日第1刷2004年9月1日第2刷1,200円+税、ジョルジュ・バタイユ著出口裕弘訳『内的体験 無神学大全』1998年6月15日第1刷2008年3月28日第5刷原本1970年11月現代思潮社、『季刊atプラス03号』2009年2月7日太田出版。『野菜作り花作り02』2010年3月14日発行朝日新聞出版580円。

神津陽『極私的全共闘史 中大1965-1968』彩流社2007年12月8日1800円+税、武井昭夫『層としての学生運動』発行スペース伽耶発売星雲社2005年6月15日3,200円+税、家庭菜園検定委員会『畑と野菜のこと』家の光協会2008年10月13日第1刷1,200円+税

渡辺和靖『吉本隆明の1940年代』ぺりかん社2010年4月22日第1刷2800円+税宮崎学『突破者―戦後史の闇を駆け抜けた50年 上』幻冬舎アウトロー文庫

ブログ再開・最近読んだ本Aデリダ以後の苦悩〜自由と安全をめぐるジグムント・バウマンの心情と論理

2010年05月19日

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ジグムント・バウマン著奥井智之訳『コミュニティ 安全と自由の戦場(COMMUNITY:SEEKING SAFTY IN AN INSECURE WORLD』筑摩書房2008年1月10日第1刷2009年1月25日第3刷2600円+税・原著2001年
ジグムント・バウマン著伊藤茂訳『アイデンテティ』日本経済評論社2007年7月5日初版第1刷2009年9月10日第2刷2400円+税・原著2004年

デリダ以後の存在論
バウマンは「デリダ以後」の、思想展開の中で主要な人物とされ、1925年生まれという高齢(吉本隆明より一歳年下!)でありながら2001年以降も活発な議論を展開している。社会学の第一人者ともされる。
「コミュニティ」では、自由を求めながら、不安にさいなまれるという、人間の個人性と共同性との「本質的な逆立」にかかわって共同体を呪詛したり、絶対化したりするアンヴィヴァレントな、あるいは引き裂かれた感情を持たざるを得ない存在の仕方を「タンタロスの苦悩」と言う比喩を使って語りだす。
壮麗な論理体系の構築と言うより、驚くべき論理の精緻化を通してついに濃密な情感にいたるというような、西欧の学の一つの帰結がここにあるだろうか。

自由と不安の永遠の「戦場」
ヘーゲルの「自己意識の自由」=「絶対知」に代表される「近代市場社会」の個人志向、人間主義は、グローバリズムの時代を経て今日、共同体的なもの(共同体主義=コミュニタリアニズムなどとして変貌しつつあるところの新たな共同体的なるもの)との戦いに疲れ、ほぼ敗れ去ろうとする戦士のようでもあるか。しかしながら、人間に、もともと内在する「自由の戦士」は無論、滅びることはないのであって、どうあっても共同体的なもの、との共存を図らねばならないものだろう。
それは永遠に訪れない和解を夢見る苦悩に満ちた戦士の心情にいたるのであり、近づいて手を伸ばすたびに水も食物もまた遠ざかってしまうタンタロスの苦悩であり、「目指していたゴールに届きそうな時にほんとはまだ遠いこと」に気付いてしまう現代人の苦悩でもあるだろう。

支配共同体は戦略的に撤退するか
「固体の近代(市場社会前期=産業資本主義形成期)」にあっては伝統的共同体の論理がパプティノコン(刑務所の集中監視システム)型組織として転化・転用されたが、「液状化」の時代(=リキッド・モダニティ=市場社会後期の後半=消費資本主義化期)には市場社会の成功者は自分たちのコミュニティに閉じこもろうとし、彼らによる支配共同体は「関与(監視)」ではなく「撤退」を戦略とするという。
ここにはナチスドイツの時代を経てきた人の、つまりヨーロッパ後期近代の悲劇の、傷跡が暗い影を落としているかもしれない。バウマンがいうように、消費資本主義期には、市民社会はその奥底まで「市場化」されてしまい、市民は「夢見て」いたように個人化され「自立」を強いられるが、それだけでなく古いつながりが消滅した後、新しい繋がりがないために、「自律的」に孤立し分断化したのである
逆に残存していた前近代性は一掃されてしまった。
それは、原爆による、ホロコーストによる、破滅の後の一木一草もない廃墟のような光景でもあろうか。原爆もホロコーストも「近代=市場原理社会」が必然的に持つ凶器性の象徴として、人間をインスパイアし、警告を発してきたであろう、か。
支配共同体は、戦略的に撤退したのではなく、支配共同体が崩壊するほど進行した市場社会化によって成功者たちも分断され孤立して行くことになり、「自律」的に撤退を余儀なくされたのである、というべきではなかろうか。

永遠の戦場から「人間性の共有」へ
バウマンは永遠の「戦場」に立つ人間の苦悩を精密に描きながら、その引き裂かれた感情を「温かいサークル」主義(カント『判断力批判』における「美的コミュニティ」=一時的、部分的なコミュニティ)に逃げ込むことでなだめようとしているという。
またカルチュラルスタデイズ(私はよく知ってはいないが)など文化左翼の多文化主義には、「差異の承認」はすなわち「無関心」につながるとして批判し、「人間性の共有」を通じて、「権利上の個別性」としての身分と、「事実上の個別性」を両方とも獲得することを目指さねばならないと結論付ける。

ジグムント・バウマンの議論は精緻を極め、要約するとすべてが脱落するというような豊かなディテールを持っている。十分理解できない用語や言い回しも少なくない。

わたしには、彼の結論的な提案がもう一つ明晰でないような気がする。が、それはわたしの理解が足りないためであるかもしれないことを注記しておかねばならない。

     ※     ※     ※

ジグムント・バウマン著奥井智之訳『コミュニティ 安全と自由の戦場』筑摩書房2600円+税2008年1月10日第1刷 2600円+税、原本2001年“COMMUNITY:SEEKING SAFETY IN AN INSECURE WORLD”

目次

序章 ようこそ、捉えどころのないコミュニティへ  7
第1章 タンタロスの苦悩  14
 自由と安心の二律背反、という人間の宿命。
第2章 引き抜いて、植えつける  15
 農村から都市へ、地域業から企業へ、ひとを移動させる近代化プロセスをコミュニティから市場社会への「植え替え」と比喩的に捉える
第3章 撤退の時代――大転換第二段  57
第4章 成功者の離脱  71
 消費・金融資本主義=グローバリズム時代の成功者のコスモポリタン
 としての本質と、コミュナリズムとの2元対立
第5章 コミュナリズムの二つの源泉  83
 カルチュラルレフトのコスモポリタンエリートとしての本質。「文化
 左翼」(リチャード・ローティ)は、金銭についてよりもスティグマ
 (差別や偏見の原因となる特徴)について考察し、「自由」と「安
 全」を二つながら損なわない夢想の「コミュニテイ」に逃げ込む。そ
 れは「同一性の(部分の)コミュニティ」や偶像や権威を中心とする
 「美的コミュニティ」であって、現実に基盤を持たず、一時的である。
第6章 承認を受ける権利、再配分を受ける権利  104
 近代は、個人が「幸福」を求める権利を宣言したが、それは再配分と
 承認をともに、含むものであった。現代(リキッドモダニティ)では
 再配分の要求が衰退し、「差異」の尊重の要求に置き換えられてい
 る。その結果不平等は際限なく拡大している。
第7章 多文化主義へ  123
第8章 はきだめ――ゲットー  151
第9章 多文化の共生か、人間性の共有か 170
第10章 ケーキも食べればなくなる  197
原注  206
訳者あとがき  211
索引  213

ブログ再開・最近読んだ本@存在はそのように世界と出会うか〜竹田青嗣のエロスの世界像とマルクスと吉本隆明とソシュールとニーチェ

2010年05月16日

ブログ再開である。
ちょっと多忙だったのと、宮本太郎『生活保障』や広井良典『コミュニティを問い直す』を実践的な契機の中で確証していくための、次のステップが見出せずにいたからだ。

竹田青嗣
『エロスの世界像』1997年3月19日第1刷2002年6月20日第6刷講談社学術文庫(原本1993年11月三省堂
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1947年生まれの竹田青嗣は、吉本隆明の強い影響下に「世界という背理」や「在日という根拠」などの文芸評論家として出発した。
たぶん1965年に早稲田入学、66年学館闘争の世代であり、荒岱介や呉智英とほぼ同世代、たぶん一歳年上、だろう。
わたしはこれまで、無論良い読者ではなかったが、わたしなどの7年上にあたるこの人は、70年以降の「檻」化する早稲田(=日本産業資本主義完成期〜消費資本主義移行期)の状況への対処や、吉本隆明を受容しつつ展開してゆく思考の行方として、という点やでわたしには気になる存在だ。

     ※     ※     ※

裏表紙には「世界をエロス的に経験された秩序と捉える<エロス的世界像>の観点は、ニーチェのプラトニズム批判に始まりフッサール、ハイデッガー、バタイユへと受け継がれた。著者はそこにこそ、実存としての人間存在が生と世界了解するための原理を見出すことができると解く。古典的哲学や自然科学が合理的に認識しうるとしてきた世界の幻想性を論証、現代哲学に新たなパラダイムを拓く画期的<エロス論>」とある。3月20日ごろ読了。
共同体や社会をつくって相互依存して、「コミュニティ」の中で保護されて生きながら、一方、自分らしさや自由や自己確認、さらには自己実現を欲求せずにはいられない人間の深々とした亀裂の根源はいったいどのようなものだろうか、「存在」の原理的な深みに立ちもどって、考えてみたかった。

    ※     ※     ※


経験としての世界―エロス的原理による個別世界の体験と共通了解の形成(認識)

人間は、この世界を一つの世界のように認識し論じ、破滅させようとしたり、自分の味方につけようとしたりする。それは「この世界」が客観的に存在するものとして先に存在し、後で「わたし(たち)」が生まれてきたからだと考えられる。この考えは、わたし(たち)にとって自然な感じがする。だから近代科学は「客観的世界」を一つのものさし(コード)によってコード化(記号化)してきた、であろう。

  ヘーゲルは人間の世界体験を「意識」がたどる「知」的な体系だと
  考えた。この考え方は、近代的な世界像の認識の基本の視線だった
  と言える。わたしがこの論考で試みたいのは、この近代的な世界像
  によって覆われてきた人間と世界とのエロス的関係の原理を明らか
  にすることである。
    ――P19

つまり、世界は「わたし(たち)」が認識することによって、用語を代えれば、知覚し体験することによって世界としてわたし(たち)に認識され、存在するものである。
すなわち感性的主体としてのわたしたちによって経験されたり行為されたりするものとして、個別的にのみ存在するものである。
しかし、人間が生きていくためには「複数者」として存在し、社会や共同体を形作らねばならず、そのためには共通の了解事項を持たねばならない。大切なのはこの了解事項は「共通了解事項」であるに過ぎないのであって、「正しい」了解事項、「正しい」客観的秩序=価値ではないということである。

人間の共同幻想の失敗の歴史とエロス原理

人間のこれまでの歴史の中では、いったん「共通了解事項」が成立すると、それはしばしば、いやほとんどの場合、「正しい秩序」として又は「価値あるもの」として流通するようになってきた。
すなわち「共同幻想」である。

それは個人が生きるための、あるいは共同体が存続するために形成された共同体の了解事項が、近代には「実在する先験的価値」であるかのように「国民国家」として国民に従属と犠牲を強いても守るべき「価値」の体系=国家主義に転倒していったのと同じである。

または、「貨幣」が交換のための媒介物という「道具」としてのみ共通了解されるところに貨幣の根拠があるにもかかわらず、いったん貨幣として成立するや、「貨幣そのものに価値がある」というように転倒され、ついには貨幣(価値)が貨幣(価値)を生むという、幻想的で破滅的な金融資本主義にまで転化したのと同じである。

人間がこんなにも失敗を重ねてきた理由は、人間の基本的な世界体験の原理、精神のエネルギーの原理(たとえば、ニーチェの「力への意思」や竹田青嗣の「エロス的原理」)のなかにもともと、共通了解への検証の仕組み、または固体の生存原理へと立ち返る「反省能力」が原理的に欠缺(けんけつ)しているからなのではないか、とも思われる。

※カール・マルクスは、すでにこちらでも触れたように
「自然が人間の<非有機的(=意思のない)身体(人間の一部=人間的自然=人間にとって有用なもの=「価値」)>となるところに人間の本質があるといっている。
そして(エピクロス自然哲学における)、霊魂によって「身体がくまなく囲まれている」という概念は人間が自然から逃れられない〜自然の秩序の中でしか生きられない存在であることを示している。

吉本隆明は、これを思想の根源と捉え、次のように鮮やかに整理してわがものとしていた。 
 
  全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうる
  という人間だけが持つようになった特性は、逆に、全人間を、自然
  の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、こ
  の全自然と全人間との絡み合いをマルクスは<自
  然>哲学のカテゴリーで<疎外>または<自己疎外>とかんがえたので
  ある。
   (吉本隆明「カールマルクス」『マルクス紀行』)

ことばと社会の不可能性への視線―ソシュールとともに

さらには最も根源的な転倒は、言語であろうか。
この転倒こそは、巨大な闇のように、あるいは自然界のようにもっとも複雑怪奇、錯綜するものであるかもしれない…。

ことばは人間の物理的な、生理的な、身体的な、精神的な根源的な力が「ことば」という「状態」になるようなときに行われる活動であって、そのつど生み出され消えてゆく実在しないもの、である。

しかし人間は共通了解=「道具」としての言葉を生み出して、初めて「共同」化し得るが、つまり類として生存可能になるが、そのときにほんらい複雑で多様な人間の活動である「発語」活動からたくさんのものが排除され削ぎ落とされねばならない。
吉本用語では「自己表出」や「指示表出」が絡み合った複雑怪奇なものであることばが、いったん共通了解=「道具」となると、実在するもの(文字のように)のようにみなされる。人間はこの単純化された書かれた文字をめぐって、それを品詞に分けたりして分析対象にしたり、「正しい日本語」があるかのような議論をしたり、あるは再びそれを生きた人間的な感性の複雑怪奇な活動を再現するものとして、豊かに膨らませようとしたり、する。
ソシュールの根本的懐疑は、このことばに対する、つまりことばを使って「共同」する人間社会の存在構造への懐疑であっただろう。
偉大で根源的な言語学者ソシュールは、ほんらい「状態」におけるパロール(音声)であって、そのつど消滅するものを歴史的に継続するもののように扱い、または実在しない言語を実在するかのように扱う言語学の「虚構性」または「欺瞞性」の前に、ほとんどなすすべなく失語し沈黙してしまった、であろう。

ことばの可能性のなかには豊かな不可能性があり、社会の可能性の中にもまた豊かな不可能性が埋め込まれているといわねばならない。

ニーチェの「力への意思」論

竹田青嗣は冒頭、エロス原理へといたった道筋をニーチェに依拠して以下のように整理している。

「世界を認識すること」ではなく、「価値評価」することが、この世界を体験するという原理である。この観点はソクラテス=プラトン、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、バタイユと受け継がれてきたが、ニーチェにおいて、「権力への意思」による近代理性主義客観主義的認識からの根本的な視線変更として激しく提起されたものだ。

ニーチェによる「視線変更」の内容は以下のようである。
  1 「客観存在」があり、それを「認識」するのではなく、存在の
  カオスを「生の力」が価値評価として解釈する。
  2 したがって客観的「真理」というものではなく、他を圧倒し 
  た、強力な、公認された、権力を持った、勝利した、「価値評価」
  が「真理」とされる。
  3 客観存在、正確な認識、「正しい」主観、真理、真理をつかさ
  どる神、本当の世界といった伝統哲学(近代主義)のパラダイムは
  没落しなければならない。
  4 新しい哲学のパラダイムは生命がその力の保存と成長のために
  発動する「力」の構造である。

しかし、4の部分は現在までほとんど手がつけられていない。この部分のポイントは「「世界とは<力>によって解釈された構造である」といういい方を、「世界とはエロス的に経験された世界である」という言い方に代えることにある」―P13「エロス的体験と世界」

以下、自我論、恋愛論、身体論、時間論などがそれぞれ展開されるのだが、部分はそれぞれに興味深いが、果たして「新しい哲学のパラダイム」を原理的に再構成するにいたったかはコメントしづらい。
竹田はその後フッサール・へーゲルの研究者としての著作が多く、近年は言語論的な視線へと展開しているように思われる。
「エロス的」という用語はあまり使われないようだが…。

     ※     ※     ※

目次
序 エロス的体験と世界  11
認識論的デイスクール  21
近代的“心身二元論”  38
エロス論的デイスクール  56
「死」の不安の意味  75
原初的エロス  84
ロマン的世界の成立 92
「世界」の結晶作用  110
自我  119
恋愛  141
エロティシズム  163
幻想的身体  193
幻想的世界  213
時間について  223

     ※     ※     ※

P1120677.JPG名称未設定 1.jpgTop.jpg
同じ著者の『竹田青嗣コレクション1 エロスの現象学』海鳥社1996年6月10日、『言語的思考へ 脱構築と現象学』径書房2001年12月15日第1刷2200円+税、『近代哲学再考 「ほんとう」とは何か-自由論』径書房2004年1月10日第1刷。

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岸田秀・竹田青嗣『物語論批判 世界-欲望-エロス 岸田秀コレクション』1992年10月17日第1刷1993年10月28日第2刷2200円+税→525円、

■磯崎憲一郎「終の住処」文芸春秋9月特別号(第141回芥川賞発表・受賞作掲載)〜〜言葉の膂力

2009年10月06日

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新しい時代の言葉の獲得
〜詩的言語の散文的流出という現実、言葉の膂力


「妄想」となる言葉を現実につなぎとめる

なんといっても妄想と現実を綯い交ぜにしたような言語の形態が一回り時代を進めている。
20年あまりの回想が、妄想(となった現実)と生の現実が入り混じって、断片となって積もっている。過去は、断片に過ぎない。時間は断続するものとして回想される、ということ。回想される過去の断片には妄想が入り込み、「現在」を救い出し、また別な妄想へとつないでゆく。現在もまた断片に過ぎない。すなわち未来も、である。過去を見ることは同時に未来を見ることである。
「妄想」となった破片の時間をわたしたちもまた、たくさん抱えている。

言葉の膂力

これら破片と化したかに見える記憶や思いや表象やを繋いで、一繋がりの時間として定着してゆく言葉は「文学語」や「詩語」ではない。「普通」の現実感のある言葉である。しかし、その極めて平易な現実的な言葉で紡がれるのは、「口にすると世界を凍らせる」かもしれないあの、詩的な内実が存在していた「時間」のあちらとこちら、である。この言葉は軽々と「あちらとこちら」または「内部と外部」を出入りする抽象または非現実の言葉でもある。
一種のアクロバットのような「力技」が辛うじて、流れとしての「現実」の方向につなぎとめている。この力技は、言葉の膂力があるといえばよいか。

「詩的」な水準の言語の散文的叙述

ここで駆使される言語の水準は、詩的な言語であるが、現れかた叙述の繋がり方はしかし、散文的な構造になっている。ここで吉本隆明の「固有時との対話」と比較してもよいが、今はその煩に堪えない。
このような姿勢を建設的といわずにはいられない。このどうしようもない世界を、至って肯定的に受け止める一人の主体としての、どうしようもなく分解された人間のありかたが重い。

     ※     ※    ※

選考委員の評のうち黒岩千次、小川洋子、川上弘美、山田詠美の評に基本的に同意。石原慎太郎が全く理解できないというのは「全く」納得できる。
三浦雅士の「緊密に描く平凡で波瀾万丈な人生」という言い方は盲剣法のようにごく表層で当たっているが、「男女ともに30すぎての結婚がめずらしくなくなった」ような「日本の現在にまっすぐに向き合っている」などという(毎日新聞9月13日)のはどうなのか。
「まっすぐ」かもしれないが、それは風俗小説としてまっすぐに見えるかもしれないのであって、文学的思想的には膜一枚を隔ててかすんでいる。
「まっすぐ」な記憶のまま、まま身をかわしたことによって、この難しい水準の言葉の不思議な安定とか定着とかを得たように思われる。それは小説を書く態度として、まっとうな態度のように思われる。

    ※     ※     ※

この人(磯崎)が真に文学的思想的に「現実にまっすぐ」向き合っていれば、われわれはここに、平成の「固有時との対話」(吉本隆明)を得ていたかも知れない、ように思う、のだが…。

最近読んだ本 5 黒田喜夫、谷川雁、柄谷行人、吉本隆明

2009年06月20日

黒田喜夫「彼岸と主体」「負性と奪回」「自然と行為」

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昔のものを引っ張り出して…。吉本や谷川雁が時代の「正」の面を歩いたとしたなら、黒田喜夫はその「負性」の情念の暗さ、解体しつつある農村を根拠とせざるを得ない悲劇性廃墟性において、負の面のみを象徴的に歩んだ稀有なひとりだ。それは負の極点から正を併せ呑もうとする極細い、あまりに細い道だが、しかしその射程はたしかに時代の足元の空隙に届いているように思われる。

谷川雁「谷川雁セレクション」1・2
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柄谷行人「柄谷行人、政治を語る」2009年5月
宮台真司「日本の難点」2009年4月15日幻冬舎新書
季刊「at」15号2009年4月6日太田出版
堂目卓生「アダム・スミス」中公新書

どうも、深さ、が…、なんだか違うような…。

吉本隆明「共同幻想論」「全著作集4・5・6・7・13・14」「貧困と思想」その他多数。
通読したわけではないが、頻繁に手に取って拾い読みまたは眺めた。

最近読んだ本 4 ヘーゲル 「法の哲学」「精神現象学」、レヴィ=ストロース「親族の基本構造」「野生の思考」ほか

2009年06月20日

ヘーゲル
「法の哲学」1・2中公クラシックス
「精神現象学」上・下 平凡社ライブラリー

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「共同幻想論を読む」の7回目のために読んだ。吉本は個人と共同体との関係を、「個人、家族、社会」と考え、それぞれの水準において異なる心的世界(幻想)があると考えた。とくに個人と共同体が相容れないことを重視して、個人と共同体との関係を最初に設定しようとした、であろう。
そのときヘーゲルの「子は自分の生成を、自己自身を、消えてゆく親において持っている」とか「混じりけのない関係は兄と妹の中にある。〜〜以上の関係は自己の内で閉鎖的家族が解体し、自らの外に出てゆく限界点である云々」(「精神現象学」下巻p36)といった記述に示唆を受けて、夫と妻の「対幻想」が兄弟姉妹の個人としての自立によって超越(共同体の成立)、かつ解体(個人の成立)されるというイメージをつかんだ、であろう。
そして、その共同体を国家と読み替えることにおいて、フロイト「トーテムとタブー」のエディプスコンプレックス論の構成(性的な禁制から、王と臣下の制度的な禁制へ)は、直接国家に届くように思えたであろう、か。
かくて、「共同幻想論」はフロイトの禁制論から書き起こされるに至ったであろうか…。

レヴィ=ストロース
「親族の基本構造」上巻(1977年11月20日)下巻(1978年4月20日)番町書房、
「野生の思考」(1976年3月30日)みすず書房
ミシェル・フーコー
「フーコーセレクション5 性」
「フーコーセレクション6 生政治」ちくま学芸文庫
シグムント・フロイト
「エロス論集」「自我論集」ちくま学芸文庫、
「幻想の未来・文化への不満」光文社古典新訳文庫


同じく、吉本隆明「共同幻想論」を読む7回目のために読んだ。
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最近読んだ本 3 三上治「1960年代論」「1970年代論」ほか〜「深部」へ届く言語の水準と新しい社会分析

2009年06月20日

三上治
「1960年代論」(2000年5月10日)
「1960年代論2」(2000年6月25日)
「1970年代論」(2004年2月25日)
批評社

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私は1973年ころ、吉本隆明の講演を聞きに、日比谷公会堂の叛旗派の主催する集会へ出かけたことがある。当時極少数派、であった叛旗派は吉本派であり、新左翼諸党派の中では唯一、教条主義的でないホンネに届く、ややくぐもったコトバを使う、気になる存在だった。
三上治はその指導者であった。
あれから30有余年後、あまりにきれいさっぱり一個人として身を振りなおした三上の思考が浮き彫りになる。私生活を交えて、抑制して、軽く軽くと心がけて書いたであろう青年期三上の回想は、やはりあの時代を自分のものとしたいという、激しい欲求に彩られている。特に1960年代論1の「体制全体の変革につながるような反乱はもう終わり」、「世界」と「存在」の両方の革命P63とか、2の「角材とヘルメット」の行動的ラディカリズムは、ふるびた国家権力への「急進民主主義的な異議申し立てである」とか、70年代論の「1969年1月安田講堂封鎖解除、4月28日沖縄闘争をもって運動は内発的退潮期」、さらには「日本において国家の革命はすべて支配共同体内部での革命であって。国家権力と大衆との関係が変わるという革命は登場しなかった」とかの言葉は60年代を総括する全体の核心であり、従来にない社会分析であり、共感をもって受け止めた。
またコトバの垂鉛が、機能的水準でなく、「生きる」こと、「存在」の深部にまで届くような、深さがあるように思われる。

たしかに、「角材とヘルメット」は、警察=国家権力の暴力への身体的=自然的水準からの直接的な抗議と防衛の意思表示であり、それが社会秩序全体への抗議にもつながっていたが、それで「政治革命」ができるなどと誰も(本当は)思ってはいなかった。
権力は強大で安定していたし、経済発展のおかげで民生も安定していて、大衆の意識は生活を破壊する「革命戦争」などを望んでいなかった。
ただ高度資本主義の出現は、大衆の異議申し立てを行動的ラディカリズムで表現可能にしたのだ。
権力や社会秩序からする、個人への「暴力」は、様々な水準とさまざまな規模であったけれども、身体的にも精神的にも「公」的には「個人の生命に危害を加えてはならない」という「戦後民主主義」が獲得した「生命優先」の枠の中にあったであろう。
「角材とヘルメット」は、民主主義は、固体の存在の深さと、固体の意志をもっと尊重した体系に作り変えられねばならない、という、「共同体」優先から「個人優先」へ、社会秩序の転換点であった。
それは、1985年の総理府調査「(未来より)現在を大切にするひとびと」で、消費社会として個人の生活意識にあらわれ、今日まで引き続いて「ポストモダン」社会を形成した。

スガ(糸+圭)秀実「1968年」(2006年10月10日)ちくま新書
「吉本隆明の時代」の延長として読んだ。E・W・サイードやアントニオ・ネグリに寄り添う意識が強く、現代につながる思想の萌芽を見出そうとする姿勢が強い。
時代は、サイードやネグリの言説より、もっと深く解体しているのではないか。思想はその解体の、未明の暗い底からやってこなければならないのではないか、と思える。
思考が様々な要因に、いつも直線的に一定の反応をしたり、例えば弁証法的なオートマチックな反応をする、と考えるような言語の水準が問われているのだ。

岩崎稔、上野千鶴子など編「戦後日本スタディーズ2」(2009年5月30日)紀伊国屋書店
これは読んだ、というより資料として眼を通した。60年代の思想動向、社会動向をまとめたもので総覧的な解説。年表が良い。

最近読んだ本 2 吉本隆明論 4冊とそのほか

2009年06月20日

スガ(糸+圭)秀実「吉本隆明の時代」2008年11月30日作品社、
鹿島茂「吉本隆明 1968年」2009年5月15日平凡社新書
田川健三「新装版 思想の危険について」2004年10月30日インパクト出版会
鷲田小彌太「吉本隆明論」(1990年6月15日)三一書房

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吉本の周辺を探しているうちに鹿島茂の著書が刊行されたので、上記4冊をまとめて読んだ。ほかに管孝行の吉本論、磯田光一のものを良いものとして記憶している。岡庭昇のものも、柄谷行人のものも。順次詳しく取り上げて整理して行きたい。
もちろん鮎川信夫や谷川雁、奥野健男、月村敏行など近しくあった人々の文章も。
スガ秀実「吉本隆明の時代」は、時代と知識人の関係を捉えている。安保後の吉本の「転向」と「自立」への道筋や「大衆の原像」が「超資本主義」に解消されてゆくあたりは、スガの博覧強記というべき時代の人間関係の詳細、ドレフュス事件など多数の関連思想が、世界史=日本史的にうまく捉えられていて本書の白眉である。政治的他方吉本の詩的核心はいまひとつ掘り下げられていないようだ。
鹿島茂は、自称「永遠の吉本主義者」だそうだが、こんな自分本位の解釈も、もち論あるのだな、と妙に感心した。鹿島は吉本思想の成り立ちを、都市下層(といっても経済的には豊かな)の非インテリ層という出自にもとめ、そこから、ナショナリズム論や転向論における「民衆」「大衆」論、さらには「大衆の原像」「自立」を説明している。
力作だし、フランスものの「理論」を借りたりしていないところは「自立的」だが、すべてを「東京下町の非インテリ」で言い尽くすわけには行かない。芥川にしても、高村光太郎にしても「下町非インテリ」だから、悩んだわけではなく、漱石以来の日本近代の知と社会的現実との格闘がここでも展開されていたのであり、そのような広い文脈の中で読まなければこれら文学者芸術家たちも吉本もやせて縮んでしまうのだ。

スガのものなどは思想に関しては相当全体像に迫っているように思うが、吉本の全体像はあまりに多様で幅広く、まだ部分の掘り下げに終わる論が多く、整理途上の段階かもしれない。

田川健三は「イエスという男」など歴史的イエス論で親しんだ記憶がある。ここでは「反核異論」の吉本を否定しつつ、前期(60年代までの?)吉本をすくい出そうとしている。親鸞論をてがかりに、吉本が「情況」的言説を本質論原理論に滑り込ませているとしているが、論の進め方に性急さがあって、まさしく部分を捉えて全体に拡張しているように見てしまう。

最近読んだ本 1 丸山真男

2009年06月20日

読書や仕事にかまけるうち、ブログの更新が滞っているので、
とりあえず読んだ本でもメモしておこう。

     ※     ※     ※

丸山真男「日本の思想」岩波新書、丸山真男・梅本克己・佐藤昇「現代日本の革新思想」岩波現代文庫、丸山真男「忠誠と反逆」ちくま学芸文庫

丸山真男の「おさらい」をするつもりで読んだ。「日本の思想」は近代の分析については、吉本転向論より早く、且つずっと適切に正確に日本近代の構造を剔抉している。心情を掻きたてる力はないが、深く思考をめぐらせる力がある。
「現代日本の革新思想」は、極左、構造改革、市民主義の3派を代表する論者の対談。「革命」を現実のものとして扱う、状況的発言は相当に古びているが、その中には、時代を深く捉える省察や考察が含まれていて興味深い。吉本はこの鼎談を捉えて「状況への発言」のなかで丸山真男を激しく非難している。が、しかし、吉本の非難のようにはことは明快ではなく軽くは扱えないものがこの本には含まれている。
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「いま甦るアダムスミスの思想」堂目卓生―中央公論5月号

2009年04月27日

中央公論社「アダム・スミス」で話題の著者による、古典派から現代の経済学までのドローイング。
アダム・スミス「道徳感情論」の現代的意義を説く。
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     ※     ※     ※
(以下ダイジェスト)

個人の規範原理 
利己主義=自分の幸福を最大にするという原理 
功利主義=社会全体の幸福を最大にするという原理
権利主義=幸福に還元することなく、基本的諸権利を守る
道徳感情主義=公平な観察者からの非難を避け賞賛を得るという原理

道徳感情論の人間学
   弱い人=世間の評価を気にする、利己主義→繁栄をもたらす
   賢人=胸中の公平な観察者の評価を重視する→社会秩序をもたらす
   ※弱い人は、しかし賢人の原理によって制御されなければならない。
     こころの内に両方の要素を持つのが、人間であるならばそのような人間によって構成される社会の秩序と繁栄をつかさどる立法者は「賢人の原理」を持つべきである。
国富論の経済学
   市場における交換は、利己心だけでなく、同感の能力を使って成立する。
   経済成長の真の目的は貧困の状態にある人、すなわち、社会生活を送るために最低限必要とされる富すら持たない人の数を少なくすることであった。
(「少なくする」とはどういうことか。何も基準が提示されない。
   スミスは、立法者は「賢人の原理」にたって、自由で公正な市場の構築を目指すべきであり、重商主義的な諸規制を緩和する政策を進めるべきだと考えた。しかしながら、スミスは、諸規制を今すぐ廃止することには反対した。
(セーフティネット、を主張した、わけである)
   イギリスにとって、アメリカ植民地が独立戦争を起こしたことは危機でなく、長年の重荷から開放され、理想的な状態に向かって一歩前進することができる好機であった。

スミスの後継者たち
ジェレミイ・ベンサム(1748〜1832)は、同感を基礎とするスミスの人間観を退け、個人の規範原理は究極的にはすべて利己主義の原理、すなわち自分自身の快楽を最大にするという原理に還元することができるとした。
そして、立法者がとるべき規範原理は、功利主義の原理すなわち最大多数の最大幸福であるとした。〜略〜彼の思想は、ベンサム・サークルの一員であった経済学者ジェイムズ・ミル(1773〜1836)やデイビッド・リカード(1772〜1823)大きな影響を与えた。

(ジェイムズ・ミルの長男ジョン・スチュアート・)ミルはこのように考えて、立法者の規範原理は、正義に反しないかぎり、個人が多様な快楽を自由に追求することを妨げず、むしろ促進するという原理、すなわち自由主義の原理を採用したのであった。ミルが提案した様々な政策――教育の普及、婦人の政治参加、労働者による生産協同組合の形成など――は自由主義の原理に基づくものであった。

アルフレッド・マーシャル(1842〜1924)の『経済学原理』(1890)もベンサム流の功利主義的な人間観に立った経済学の書物であった。〜略〜彼は経済学者にとってのメッカは経済生物学にあると考えた。経済生物学とは、経済と人間性との相互依存的な変化を取り扱う経済学のことであった。〜略〜彼の関心は常に「変化と進歩に駆り立てられる人間存在」にあった。

『一般理論』(1936)の著者として有名なジョン・メイナード・ケインズ(1883〜1946)は、哲学者ジョージ・ムーア(1873〜1958)の影響を受け、功利主義的人間観に批判的な立場をとった。ケインズにとって個人の規範原理は、「真理の探求」、「美的体験」、「愛情に満ちた人間の交わり」を快楽に還元することなく、それ自体として求めることであった。これらのものこそが「文明」なのであり、立法者は諸個人が安心して文明を追求できるように平和と豊かさ確保するべきであった。そして経済学者は文明ではなく文明の可能性の受託者であり、経済に関する究極的な真理を解明することではなく、時代状況に合わせて、豊かさのための処方箋を書くことが求められた。

数学的精密化の時代
「新古典派」と呼ばれる主流派の経済学者は、功利主義的人間観を再検討するよりも、それを前提とたうえで、諸理論の数学的精密性をたかめることにエネルギーを注いだ。最大化問題を中心とする数学的取り扱いにとって、功利主義的人間観は非常に便利であった。諸事実との整合性を検証する計量経済学の手法も開発され、統計データの整備も進んだ。

しかしながら、経済学者が功利主義的人間観を受け入れた期間が長く続いたため、経済学者は、それが、一時的に一定とされた「他の事情」にすぎず、いずれ再検討され修正されるべきものであることを忘れてしまったのではないだろうか。

世間の目には―特に経済学者が推進する政策によって損害や被害を被る人々の目には―経済学が前提とする人間観があまりに貧弱で、ときには不道徳にさえ見えたため、いつの間にか経済学者自身の人間性が貧弱で不道徳なものであると思われるようになった。

(1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド生まれの経済学者)アマルティア・センは、人間は財やサービスを消費して快楽を得る受動的存在ではなく、自分のケイパビリティ(選択の幅)を自らの力で広げたいと願う能動的存在であるととらえ、自然的・社会的要因によって最大可能なケイパビリティを得ていない諸個人に財やサービス、権利や機会などが優先的に配分される制度を構築すべきだという立法者の規範原理を提示した。センの考えの一部は、平均寿命、識字率、一人当たりGDP(国内総生産)の三つの指標によって一国の発展の度合いを示す人間開発指数(HDI)に反映され、1993年から国連開発計画(UNDP)によってHDI世界ランキングが発表されつようになった(2007-8年度版の『人間開発報告書』では、世界第1位はアイスランド。日本は第8位である)。

さらに近年、行動経済学や実験経済学、神経経済学など、実験やアンケート調査を用いて人間の行動仮説を立てた上で、経済理論を確立する新しい分野の研究が盛んになり〜略〜これらの分野を開拓したダニエル・カーネマンと、ヴァーノン・スミスに2002年のノーベル経済学賞が授与された。

行動経済学の研究成果は資産市場や労働市場におけるいくつかの問題に対して、有効な政策提言を示しつつある。例えばアメリカの住宅価格指数の開発者ロバート・シラーが、行動経済学の研究成果に基づいて、いち早くITバブルの崩壊を予測し、また、住宅バブルの危険性に警告を与えたことは有名である。『ソウルフルな経済学』(2007)の著者ダイアン・コイルが述べるように「人間の顔をした経済政策」の機は熟している。

『道徳感情論』の出版から250年たったいま、わたしたちはスミスが残した課題に真正面から取り組むべきときにある。そして一見すると人間不在に見える市場経済、感情、幸福、モラルといった人間の心の視点から捉え、その視点になじむものに作り変えていくことは、多くの時間と労苦を必要とするものであるとしても、決して不可能なことではない。

     ※     ※     ※

「いま甦るアダムスミスの思想」堂目卓生―中央公論5月号

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