共同幻想論6 共同幻想論の発想〜ドイツイデオロギーの「国家の本質」

2009年03月20日

マルクスから、直接に幻想論の示唆があるのは、『ドイツイデオロギー』の以下のような部分である。

  とにかく分業と私有は同じ表現であり――同じことが前者では活動
  についていいあらわらされ、後者では活動の生産物についていいあ
  らわされているのである。――さらに分業と同時に、、個々の個人
  または個々の家族の利害と、互いに交通するすべての共同利害との
  矛盾が与えられる。しかもこの共同利害はたんに観念の中に『一般
  的なもの』(Allgemeines)として存在するのではなく、分業が行
  われている諸個人のあいだの相互的な関係としてまず現実の中に存
  在する。
    ――岩波文庫「ドイツイデオロギー」『フォイエルバッハ』P43

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「分業」とか。「交通」とか「共同」とか「一般」とかのマルクス用語の理解は注意を要する。「普遍的」がたんなる共通性でなく「普遍化されたあるべきあり方=当為」であるように、だ。
ここでは、思考のメモの段階で、叙述は平易でわかりやすい。
「分業」は深遠な用語だが、ここではたんなる仕事の分割、と考えてよい。「分業」することによって、個人の利益は分断され、共同の利害と「矛盾」するようになる。これは私有財産制の発生と同じことだというのだ。

また個人と家族は、分割されておらず、個人の利害と家族の利害は一致している。これは大切なことである。(吉本はこれを無視して、「家族」というものを「性的な対幻想」に限定した。そのため、個人幻想と対幻想の関係はただただ性的な契機だけであり、個人はいきなり性的な存在として共同体(=国家)の成立によって疎外される当事者として現れるしかない。いわば「片肺の対幻想」をもって共同幻想に対峙した)

吉本が観念の領域で「共同幻想」と「個人幻想」が「逆立」する、というのは、実態的はこの分業に根ざしている。そして、その媒介項に「対幻想」を持ってきたのは、なぜだったのか。それは、実態的な自然的な過程を反映していない、ということであろうか。

※そしてマルクスによれば「分業」の確立は精神(=幻想)と肉体の分業、すなわち、「僧侶」が誕生したときだ、といっている。

続いて次のように言う。

  そして分業は、ただちにつぎのことの最初の実例をわれわれに提供
  する。すなわち、人間が自然成長的な社会のうちに存する限り、し
  たがって特殊利益と、共同利害との分裂が存するかぎり、したがっ
  てまた、活動が自由意志的でなく自然成長的に分割されいる限り、
  人間自身の行為は彼にとってよそよそしい対立的な力となり、そし
  て彼がこれを支配するのでなく、これが彼を抑圧するということの
  実例である。すなわち労働が分配されはじめるやいなや、各人は専
  属の活動範囲をもち、これはかれにおしつけられて、彼はこれから
  抜け出すことができない。かれは猟師、漁夫か牧人か批判的批判家
  かであり、そしてもしかれが生活の手段を失うまいとすれば、どこ
  までも「それ」でなければならない――これにたいして共産主義社
  会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門
  においても修行を積むことができ、社会が全般の生産を規制する。
  そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく、気の向くままに今日は
  これをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、
  夕べには家畜を飼い、食後には批判をすることができるようにな
  り、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。
    ――岩波文庫「ドイツイデオロギー」『フォイエルバッハ』P43〜44

微笑ましいマルクスの「共産主義」のイメージだ。このイメージが良いという意味で引用したのではない。あまりの素朴さに逆に感動したので、引用したのだ。もちろん、わたしは、こんな「共産主義」を望んでいないし、マルクスもそうだろう。ただ「このようにしか語れないこと」を、語ろうとしているのだ。ことは、労働形態の問題でなく、人間的自由の問題、である。したがってまた、これをもって「共産主義=計画経済」と考えるのはばかげたことである。
横道にそれてしまったが、しかし、こんな風に書いてみて考えるマルクスは、いいやつではないか!!と書いておきたい。
もちろんここでも「自然成長性(生産が強いる必然的過程であって、自然成長的な分業は私有と不平等な分配を意味する)」とか「社会(生産が強いる必然的な人と人との関係=市民社会)」とか「批判(=思考・考察・思想・精神)」とかの用語の理解には注意を要する。

本論に戻ろう。

  そしてまさに、特殊利害(個人の利益)と共同利害とのこの矛盾に
  基づいて、共同利害は、個別および全体の現実的利害から切り離さ
  れて国家として一つの独立な姿を取る。そして
  それはまた幻想的な共同性として、である。
    ――同前 P44

個人の現実的な利害から切り離された「共同利害」がひとびとに一つの「人格」のように現れること、こそは国家であり、それは人びとの共通な観念の中で造られた幻想的な共同性、である。といえばよいか。
吉本共同幻想論の国家観の成り立ちはまさにここにある。

引き続き、国家が、実在的な土台としているのは、「あらゆる家族的集合体、および種族的集合体の中に存する紐帯、たとえば血肉、言語、比較的に大規模な分業」とその時代の支配的階級であると述べ、したがって国家内の政治的社会的な闘争は階級間の闘争の幻想的形態であるといっている。

そして、ある階級がその階級の利害を「一般的利害」であるとしてかかげるためには、「やむをえ」ず、まず政治権力を奪取しなければならぬ、とも。
(ここから政治思想としての「マルクス主義」が始まる。が、私は、わたしの課題に戻ろう)

そして、個人に対する国家の本質をこのように語る。

  諸個人はただ彼らの特殊利害(=特殊化された普遍=個人としての利
  害)――かれらにとってかれらの共同利害と合致しない利益(=個
  人の利害)だけを求める。そして一般的なもの(普遍的なもの)は
  共同性の幻想的な形態である――それゆえにこそ、このもの(=国
  家)はかれらにとって『よそよそしい』(fremd)そしてかれらか
  ら『独立な』(unabhängig)利害、すなわちそれ自身ふたたび特殊
  なそして独自な『一般』利害(Allgemein Interesse)としておし
  だされる。あるいはまたかれらは、民主制のばあいのように、この
  ような決裂のままで互いにまみえなければならない。したがって当
  然また他方では、共同利害および幻想上の共同利害にむかってたえ
  ず現実的に対立するところの彼らの特殊利害の実践的な闘争は、国
  家としての幻想的な『一般』利害による実践的な干渉と制御を必要
  なものとする(引き出すことになる)。社会的な力は、すなわち分
  業のために制約された協働(種々な個人の)によって発生するとこ
  ろの倍化された生産力は、この協働そのものが自由意志的ではな
  く、自然成長的であるためこれら個人にはかれ
  ら自身の結合された力としては現れずに、かれらの外に立つよそよ
  そしい力として現れる。
    ――同前 P45

ここに国家は幻想であり、個人と矛盾対立するものであることが宣せられる。しかし、マルクスはこのあと、国家や法や哲学にかかずり合うのをやめ、「市民社会」の本質たる「資本」の解明に向かうのである。

『ドイツイデオロギー』のこのあたりの部分は、マルクスの叙述がきわめて平易でわかりやすく、翻訳によって晦渋さが加わってもなお、ある種の明晰な精神の透明性を感じられる。用語が完全にかれのものなり、思考に確信がふかまり、その手ごたえに精神が高揚しながら、熟した思考が自然に適切な用語を選択し、密集した密度の高い言語水準が獲得されている。
思考がある大きな地平をきり開いたときのたくさんの情熱と冷静が詰め込まれている。「詩的」である、といっても良い。

1981年角川文庫版『改訂新版共同幻想論』の序文で、吉本隆明は次のように書いている。
  
  まずわたしが驚いたのは、人間は社会の中に社会を作りながら実際
  の生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会の上の聳え
  ているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主
  義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国
  家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものというイメー
  ジで考えられてはいない。
  〜略〜
  ある時期このイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめる
  ほど衝撃を受けたのを覚えている。同時におなじ国家という言葉
  で、これほどまでに異質なイメージが描かれることにふかい関心を
  そそられた。

「国民の全体をすっぽり包んでいる袋」とは、東条英機―岸信介らの軍部・官僚の「統制派」による、国家が文化も芸術も経済も産業も(つまり市民社会を)国家の活動のために「総動員できる」という戦時体制のイメージであろうか。たしかに、戦争下でも「戦争は国家の仕事であり、国民はこれに対して否と言うことができる」、というアメリカやイギリスのイメージとは違っているように受け取れる。
(しかし、ここから「アジア的」一般を引き出すのは、ちょっと違うように感じられる。もっとも、『共同幻想論』では「アジア」ではなく、「日本」というクニを取り上げたから直接の非議の対象ではない。)

じぶんの生まれ育ち生活し、感受し思考する「場」であるニホンというクニを取り上げて、共同幻想の成り立ちを理論的にあきらかにすること。というより構築すること。
それは敗戦によって痛手を受けた吉本が内心で問い続ける、以下の課題にこたえる、客観的(普遍的)な理論構築でなければならなかった。

1 資本主義も十分に発展していたはずの昭和期日本国家は、なぜやすやすと「超国家主義」と「統制派」の支配する非理性的な、「万世一系の天皇」が統治する偏執狂的なクニになったのか。
2 これに対して、なぜ知識人も庶民も「抵抗」というより「賛美」していたのか。また戦時中に戦争を賛美していた知識人や庶民はなぜやすやすと、戦後に民主主義者に転向したのか。

『転向論』ではいわば転向者にそくして(いわば形相的還元として)、転向のプロセスを取り上げ、分析した。
次はこうした事態を生み出した根本要因である「この社会」のがわの本質的な原理のなかから吉本の主題にそくして(いわば超越論的還元として)、「個人を蔽うようなイメージの「お上」とか共同幻想」の成り立ちを解明し、理論化(普遍化)することにより、共同幻想のいびつさを解体することが目指された、であろう。

動機付けは整った。
ここから、共同幻想論の構想の全体像まではあとわずかだ。

共同幻想論5 それまでの吉本隆明―詩と情況と原理その2

2009年03月15日

原理的思想としての共同幻想論

「情況」の本質的終焉
吉本的「情況」を追えば、その後1959年「社会主義リアリズム論批判」で、「プロレタリア文学運動の批判的検討に見切りをつけ」、つまり「プロレタリア文学」も「政治と文学」も文学には存在しないし、関係ないのだと、独自の文学理論の構築が視野に入った。
安保敗北の一連の流れの中で1962年「擬制の終焉」に至る既存前衛党批判、既存政治思想批判を一応完結させたが、マルクスとは違い「批判」がそのまま新しい思想的パースペクティヴの提出にはつながらず、苦闘していた、であろう。(批判する相手が小さすぎた、のだ、きっと)
吉本にとって、政治はすでに無効を宣言され死滅を宣言されなければならないものに見えていただろう。「政治の季節」=情況もまた本質的に終焉していたのである。(私たちはその、最後の熾き、のようなものに引っかかっていたのだった、ろう。)

反逆から自立と構築へ
この時期情況的に(安保敗北後の新左翼運動や既成左翼への批判的提起として)「自立」の思想が提起されている。だがその実態はよくわからない。(よくわからないからこそ、わたしたちを含めたミーハーを獲得し、濫用された)
情況的に政治的な思想のように、提起されたが、よく読めば、自立とは、何かからの自立ではなく、「他立」一般に対しての「自立」である。(ならば新左翼諸党派や既成左翼への批判などともなわずに、原理的な課題として提起すればよいものを、と、今は思うが、しかし、これが「情況の人」たるゆえんであり、あかしでもあるだろう。)
簡単に言えば、生計を大学などのこの社会の秩序維持派に頼らず、政治的には(情況的には)あらゆる既成の勢力と妥協せず、思想的には既成マルクス主義でない新たな思考の枠組みを構築して「自立すること」であり、私たちはこれを文字通りに、倫理的に、思想的に、生き方的に受け止めようとしてその不可能性に、内心ひそかに、おののいていた。

このとき自立思想の根拠として「大衆の原像を意識に繰り込む」という「大衆の原像」論も同時に提起され多くの影響を持ったが、そのあいまいさがまた議論になった。それは現実の分析から発生したものではないからであり、ほんらいは吉本の内心のものである「詩的絶対性」を言い換えたものである、からだろう。
「マチウ書試論」における「秩序に対する反逆」を「倫理に結びつけ得る」「関係の絶対性」、を社会化しようとして「大衆」に結びつけたものであるからだ。
その媒介項として、親鸞的な「非知」の論理を想定しても、大きくは違わないだろう。

反逆から自立へ、(政治的)情況から(原理的)構築へ、吉本は大きく「転向」した。
しかしなお社会全体を視野に入れた新しい思想的原理の構築は保留され、60年新たに創刊した「試行」では、詩的世界の延長である文学の原理論として「言語にとって美とは何か」が開始された。しかしその内容は「詩的世界の延長」とは似ても似つかなかった。それはまさに「反逆」から「構築」へ立場を変える「苦闘」であったことだろう。
そのままでは、赤裸に、「詩」をもって世界を語った詩人、のすがたであり続けたであろう。(つまり100年以上前に「ユリイカ」に命を懸けたエドガー・アラン・ポー、のように)
(このころの吉本の試みはフーコー的な微細な差異や無意識の読み解きと同期的であり、世界思想を視野に入れていた。が、部分の思考が進化する度合いに応じて、時代の情況と拮抗する思想の「関係の絶対性」は薄められていったであろう。正しくは、1958年ころに、時代に詩的絶対性を対置する「関係の絶対性」=秩序総体への反抗の心情を括弧に入れたからこそ、時代と詩的絶対性との距離を「政治状況」的な「情況」によって埋めることで「現実社会に相渉り」、さらに、「知」の深みに安住の場をみいだした、というべきであろう、か…。)

吉本思想の転回とマルクス思想
1964年の、マルクスについての論考の機会は、救いでもあり、転機だったのではないか。
「図書新聞」に掲載された「マルクス紀行」は、吉本に「思想の根源」としての「マルクスの自然哲学」の再発見と、吉本にとっての(この時点での)ほぼ唯一の思想的同行者「マルクス」の発見をもたらした。
講談社「世界を動かした人びと 1 世界の知識人」の1項目としてかかれた「マルクス伝」で、吉本はその後の思想的地平を開く「共同幻想論」の着想を得た。

  『資本論』の理解はそれほど困難ではない。かれがその基底を置い
  ている<自然>哲学は、『手稿』と少しも違っていないのだ。ただ、
  かれがあらたに考察の軸として導きいれたのは。自然史の過程とし
  ての歴史哲学であった。そしてかれがもっとも難渋したのは、いか
  にして、<自然>史学としての歴史哲学を、かれ自身の主体的<自然>
  哲学と接着させるか、という点であった。
    「カール・マルクス――マルクス伝」

まさしく、歴史や社会やから、個人の精神や、自らの詩的な論理と倫理までの「幻想性」を原理にまで還元する原理的思想としての「共同幻想論」や「心的現象論」や「言語にとって美とは何か」を、主体的な立場としての詩的な倫理と論理、つまり「反逆の倫理」=「詩的絶対性」とどう接着させるか、という、以降の吉本の課題が語られている。

  かれのもっとも見事な考察は、‹法›、‹国家›は社会から幻想の共同
  性として抽出されて社会の外に立ち、それが‹法›という普遍権力によって
  社会と対立する、という点であった。
    「カール・マルクス――マルクス伝」

このとき、「共同幻想論」ははじめて、その構制を現す。
すなわち、マルクスの自然哲学を基底において、マルクスが「ドイツイデオロギー」「経哲」で完了させた「幻想領域」についての論考を現代的に再構築することこそが、「擬制の前衛」終焉後の、新たな原理的構築でなければならなかった。

共同幻想論4 それまでの吉本隆明―詩と情況と原理その1

2009年03月15日

吉本隆明の作品はすべて詩である、という批判者の揚言は、正しい、と思う。正しいが、だからといって評価が下がるわけでも、作品として出来が悪いわけでもない。
「詩的」表現は論理性も心情も倫理も同時的に表現できる、ということを吉本本人がその詩作品で示しているからである。

詩的吉本隆明 倫理化された心情の論理―詩的絶対性と情況

「秩序」への反逆の心情
敗戦で挫折した「軍国少年」であった吉本隆明は、国が敗れても大半はスローガンどおりには「玉砕」せずに(「玉砕」してしまう人もいるのに)、連綿と続く生活を「生活」する光景(市民社会)を目の当りにして、日本軍国主義イデオロギーや、人間や社会や国の現実に激しい不信を抱いた。つまり絶望した。
それは精神的な孤立であり、現実的な生活苦でもあり、して吉本に現れた。そして、社会への通路を絶たれた、とつよく強く感じていた、だろう。現実への通路を絶たれたと感じ、傷ついた精神は迷路のような内面に閉じこもり、モノローグのような対話に、すなわち詩によって自己を再建しようとした。

1950年「詩の一行もかけない時期」が半年以上続いた。つまり、吉本の内心の言葉、内面の自己は、現実との通路を求める時期にあり、そしてその通路は容易に見つからず、停滞していた。言い換えれば「アドレッサンス」の味を十分にあじわっていた。
現実は吉本を拒絶する「秩序」として現れていたであろう。

  <愛するものすべては眠ってしまひ 憎しみはいつまでも覚醒して
  ゐた>わたしはただその覚醒に形態を与へようと願った

  ひとびとはきっと理解するだろう わたしが言ふべくして秘めてき
  た沢山の言葉がいまは沈黙の建築をつくりあげてゐるのを

  差しこんでくる光束はわたしの沈黙の計数を量るやうに思はれた
  しかも決してわたし自らにも狃れようとしないその沈黙の集積を時
  は果してどうするか 不明がわたし自らのすべてをとざしてゐた

  わたしはただわたしの形態がまことに抽象されて もはやひとびと
  の倫理のむかふ側へ影をおとすとき 自らの条件が充たされたと感  ずるのであった
    ――「固有時との対話」

反逆の倫理の現実化
「現実への通路」を開いたものは、もちろん詩であり、その詩は、恐ろしいほどの「抽象力」(マルクスの「抽象力」!)により自意識を抽象化して、ひとびと(=「大衆の原像」に通じるか)の「倫理のむかう側」に着地するものであった。
つまり、全世界の秩序を転倒するべきだという反逆的な心情に現実の根拠=論理を与える作業であった。それは「世界を凍らせるだろうという妄想」を貫通して、そのためにには「廃人」であるほかない、という、全世界に否といわざるを得ない反逆的な感情から、発するものである。
1952年「固有時との対話」で孤独と絶望のなかで、不思議に自律的で強靭な(ふてぶてしくさえある)論理を駆使し、1953年「転移のための十篇」で、激しい瞋(いか)りと熱情で「社会へと相渉る」(論理化された)叙情をうたった。

  ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという
  妄想によって ぼくは廃人であるそうだ
    ――「転移のための十篇」『廃人の歌』

すでに仮名使いも改まり、視点は「現実から」の視点に「転移」して、「ぼく」を見ている。そして吉本の場合は特異にも、アドレッセンスの「心情」を無限の「真実」として全肯定し、そのまま深掘りして、高度に抽象化された「反逆の倫理」にしたて、論理化するという荒業であった、と思う。
どうあろうと(「廃人」であるといわれようと)、内心の「秩序」への「反逆」の心情に含まれている論理だけを武器にかれは真実を口にし、「世界を凍らせる」のである。
ここに多くの共感を呼ぶ、「思想」と「文体」の「直接性」の理由がある、ともおもう。
  ※この「直接性」というものは、内面の心情をとことん凝縮し、追い
   詰めてついに「心情の絶対性」を「関係」性に転化させると言
   うものであって、一種のアクロバットといえば言えなくもないよ
   うに思われる。
   また、じぶんの動かしがたい心情を、社会的な(マルクス言うとこ
   ろの、である)「関係」にうつしかえるということで、この飛躍
   には人間の観念というものの恐ろしさ(マルクス言うところの
   「哲学者の神秘」)が潜んでいるようにも思われる。(たんなる
   傲慢、つまり「妄想」でしかないかもしれない、という危険が常
   につきまとうのであるが…。実際「内面の葛藤からどのように社
   会へ「相渉る」のか論理的に明快でない、というまっとうな「批
   判」は当時流布されたが、しかし、大方の支持を得ることができ
   なかったようんに思われた。わたしたちには「社会的現実」へと
   相渉った吉本の偉さ、だけが印象に残っていた。)
   また柄谷行人が「放棄」したところの内部の「形式化」を突き詰
   めて、突き詰めることによって無効にしてしまうことで外部へと
   歩みでる、という言説と通底するようにも思われる。吉本にある
   詩的直観が、柄谷には少し足りないのだ…というように。
   またマルクスの「自然哲学」、「人間は自然を非有機的身体とし
   て人間化し、そのために有機的自然として自然の一部であるほか
   ない」、という根源的な存在の逆説にも、にている…か。
   ―次の、課題である。

吉本は1961年7月号の「詩学」に「詩とはなにか」を発表し、この間の事情を誰よりも明快に、やさしく適切に、そして憎らしいほど美しく言い切っている。
   
  マルティン・ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩の本質』の中でつ
  ぎのようにいう。
     
     人間の現存在はその根底に於て「詩人的」である。ところで
    詩とは 我々の理解するところによれば神々並に事物の本質に
    建設的に名を付与することである。詩人として住むとは神々の
    現在のうちにたち事物の本質の近みによって迫られることであ
    る。現存在がその根底において「詩人的」であるとは、それは
    同時に現存在が建設せられたもの(根拠づけられたもの)とし
    てなんらのいさおし(※=手柄・名誉)ではなく賜物であるの
    謂である。
     詩は現存性に随伴するたんなる装飾ではなく、またその場限
    りの感激でも況やただの熱中でも娯楽でもない。詩は歴史を担
    う根拠でありそれ故にまた単なる文化現象とかましてや「文化
    精神」の単なる「表現」などではない。      

  現存在が詩人的であるとは、いさおしではなく賜物だ、という言葉
  や詩は歴史を担う根拠だという言葉はわたしの気に入る。これをや
  さしく翻訳すれば、現存する社会に、詩人として、いいかえれば言
  うべきほんとのことをもって生きるということは、本質的に言え
  ば、個々の個人の恣意でなく、人間の社会における存在の仕方の本
  質に由来するものだ、ということになる。これをわたしのかんがえ
  にひきよせて云いかえれば、私たちが現実の社会で、口に出せば全
  世界が凍ってしまうだろうほんとのことを持つ根拠は、人間の歴史
  とともに根深い理由をもつものだ、ということに帰する。
    ――「詩とはなにか」(思潮社「詩とはなにか 世界を凍らせ
      る言葉」P17

しかし美しく出来上がった説明は、事実の事実性を、つまり内心のおののきや、不安な耐え難い心情やの出自を、吉本が詩ですくい出そうとして苦闘したあのふたつない詩的絶対性を、言い換えればそれだけが存在の根拠であるところの突き詰めた反逆の心情をのおぞましい美を、覆い隠してしまっているように、見える。

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1954年「マチウ書試論」でそれらを、現実が強いる「相対性」の圧力に抗してけして相対化されることのない「関係の絶対性」の場に立つことが「反逆の倫理」につながる、と、世界への「不信」感を倫理化した吉本隆明は、「詩」(の絶対性)をすべてに拡大し適用する天性の詩人である。

  秩序にたいする反逆、それへの加担というものを倫理に結びつけ
  得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによっての
  み可能である。

  人間は狡猾に、秩序をぬって歩きながら、革命思想を信ずることも
  できるし、貧困と不合理な立法を守ることを強いられながら、革命
  思想を嫌悪することもできる。自由な思想は選択するからだ。しか
  し人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。

    (いずれも「マチウ書試論」)

ここに「詩的絶対性」と「情況」のひとは現実への通路をこじ開けた。現代詩史はまだ、吉本の詩的意義を評価する場や器を持たない。

“情況”の思想
吉本の情況(政治的な「世界」のこと)認識は、1958年の「転向論」が頂点でこれ以降、時代を、そう凝縮して見せることはなかった。また不可能で、あった、だろう。

1951年「前世代の詩人たち」で岡本潤、壺井繁治を激しく批判し、商業文学の世界に登場して「文学者の戦争責任論の口火を切った、とされる。まことに、吉本青年のアドレッサンスを孤立と絶望に追いやった1941〜50年頃の「秩序」への反撃の開始であった。
政治思想的には、真剣にマルクス主義の可能性に惹かれていたが、日本軍国主義イデオロギーに「うらぎられた」経験が、簡単には党派や支配的言辞に与さない独自の批評的視野を獲得していた、であろう。

1958年には「転向論」により、「情況的思想論」の核心にいたった。
日本社会には「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が併在しているという「情況」認識を提示し、岡本潤ら「転向者」たちは、一度は日本社会の後進性に見切りをつけ、モダニズム(ロシアマルクス主義)に走るが、(年齢とともに=つまり生活感情として)日本社会に妥当性を見出し無残に屈服する「二段階転向」者であるとした。つまり、もともと日本的封建遺制から遁走し、流行を追った軽薄なおっちょこちょいだと言い切って切り捨てた。
また「非転向」を貫き、一種の「神格化」された英雄であった宮本顕治らを、はじめから、日本社会の現実を必要とせず(認識せず)、モダニズム(ロシアマルクス主義)に走り、空転しているもので、日本社会の現実と対決していないから非転向なだけだ、もともと「転向」していたのだ、とした。
宮本顕治は、「非転向の英雄」で、偶像だという当時の風潮に、真っ向から否を唱え、偶像の座から引き摺り下ろした力技であった。
また「転向」を心の弱さ、というような倫理の範疇から、思想の深さ、強さの論理性の問題というような、知の構造の問題に還元したであろう。
ロシアマルクス主義と日本前衛党に「擬制の前衛」として破滅を宣言し、ここから、新しい人、吉本隆明はは確立し、以後、1973年頃「情況」が死滅するまで、(つまり「政治革命」が世界を変える可能性が、絶えるまで…)思想情況(「情況」の思想)はまさしく吉本が主導するところとなった。情況の人吉本の真骨頂であろう。以降吉本は、偶像の人、とも、なったのだ。
吉本の情況(政治的な「世界」のこと)認識は、このときが頂点で、これ以降、進化も深化もしておらず「スターリニスト(ロシアマルクス主義者)」とか「ファシスト」以外のタームはついにでてこない。「超資本主義」といったあとも、その、具体的な政治思想は、ついに提出されていない。

※さすがに、動向は的確にとらえて、断片的にだが、「贈与」の思想、とか「アフリカ的段階」とかいった言葉はでてきているようだが、「情況」(政治運動としての実現の可能性)には届いていないように思われる。

     ※     ※     ※

だがここには、吉本の詐術が秘匿されているように思える。ロシアマルク主義にも日本前衛党にも破滅を宣言したとして、その後の展望はあるのか、という基本的な疑問に吉本は答えていない。あるいは意図的に「答えないことにした」のではないかとも思われる。
吉本の生活世界重視(マルクス自然哲学の現実的実現!)からいえば、戦前すでに相当程度に発展していた日本資本主義=統制派体制が朝鮮特需に乗って、大幅な回復を示し、庶民生活もゆとりを回復してきた1956年ころ(スターリン批判・フルシチョフ平和共存路線・朝鮮戦争・「もはや戦後ではない」宣言)には、すでに「暴力革命」は希望よりも「破壊」をもたらすものになっていたからだ。
1958年ころ「社会主義リアリズム論批判」や「転向論」を書きながら吉本の胸にはどのような思いが去来したであろうか。
すでに内心では「政治革命」の有効性には疑問符が打たれていただろう。それは社会主義リアリズム論の破産を言い切ることによって明らかだ。政治革命のの有効性を認めるなら、他の何ほどかを犠牲にしても政治革命を優先するべき思想が語られねばならない。
しかし現実には(情況的には)「封建遺制」の桎梏と「あたえられた革命」によりゆがめられた「戦後民主主義」がなお自立できず、苦しみながら跛行しているのであったろう。
1958年警職法闘争から59年三井三池闘争と続く中、日本資本主義の世界レベルでの「自立宣言」たる60年安保改定に対する闘争(60年安保)は、日本資本主義に対応する思想としての「戦後民主主義」の世界的自立をかけた闘いであった(あるべきであった)、だろう。
そのとき吉本が行動をともにした共産同(ブント)=全学連主流派の気分は「暴力革命を辞さず」と「全世界を獲得するために」であったが、具体的な革命の展望は絶望的なほど微小であってほぼないに等しく、吉本が同伴したのは「政治革命」の理念にではなく、むしろその行動のラデイカルさと感性の直接性・身体性ともいうべき点にあった。
それは「虚妄」としての「戦後民主主義」を身体性・直接性から転倒し作り直す『「戦後民主主義革命」の革命』とも言うべきものであったのであって、今日から見れば、フーコーなどのポスト構造主義、リオタールやスガ秀実いうところの「68年革命」の先取りとしてそれはあった。

ただ、吉本の詐術は政治革命を無効と判断しながら、「情況」的発言においてはなお政治革命を志向しているかのようなポーズをとり続けたことにあった。

それゆえに60年以降吉本は、革命の情況には程遠いといい、新左翼諸党派の暴力革命論はとんまとか勘違いとか蔑笑し「原理論」の必要性を説きながら、政治的社会的展望を持った原理論はついに言及されることはなかった。
政治的「左翼」圏内にとどまること、を吉本が公式に放棄するには東欧「社会主義」崩壊後の1995年「わが転向」まで待たねばならない。


共同幻想論3 マルクスの普遍的と受苦的

2009年02月28日

普遍的と受苦的

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マルクス自身の言葉によれば、次のようである。

  「人間は直接に自然存在である。自然存在として、しかも生きた自
  然存在として、彼は一方では自然的諸力、生の諸力を備えており、
  一つの活動的なこれらの力は彼の中に諸々の素質や堪能性として、
  衝動として現存している。
  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在
である。」
   (「経済学哲学草稿」第三手稿『ヘーゲル弁証法および哲学一般
    の批判』

またこのようにもいう。

  「類的(たんなる固体を越えた客観的普遍)生活は、人間にあって
  も動物にあっても、肉体的にはまず第1に、人間が(動物と同じ
  く)非有機的な自然によって生きていくという点に存するのであっ
  て、人間が動物より普遍的であればあるほど、人間がそれで生きて
  ゆく非有機的な自然の範囲はますます普遍的である。
  植物、動物、石、空気、光、等々はあるいは自然科学の諸対象とし
  て、あるいは芸術の諸対象として理論的に人間の一部をなしている。
  〜略〜
  肉体的には人間はただこれらの自然産物のみによって生きていく、
  たとえこれらが食物、燃料、衣服、住居といったかたちで現れよう
  とも。
  〜略〜
  人間は自然によって生きていくという意味は自然は人間の身体であ
  り、人間は死なないためには絶えずこれとかかわりあっていなくて
  はならないということである。」
  (「経済学哲学草稿」第一手稿、『疎外された労働』

人間は自然を自分の「非有機的身体」とすることによって「普遍的(類的)存在として生きるが、そのことによって人間はまた自然の制約から離れることのできない「受苦的」な存在である。

貨幣や、党派や、農村共同体や企業や国家のもつ共同幻想の逆説(それらは人間によって、人間を守ったり助けたりするために生み出されながら、成立した後は人間を「受苦的」に制約することがある)が、この自然と人間の関係に由来するものなら、
われわれはさびしい結末に導かれるかもしれない。

しかしマルクスは次のように述べて人間の実践的活動(労働)の希望を語っているように思われる。

  「人間は類(=たんなる固体を越えた客観的普遍)的存在である、
  というのは、人間が類を、人間自身の類をも、その他の事物の類を
  も、実践的および理論的に人間の対象にするから、というだけでな
  く、むしろ――これはただ同じ事柄に対するもうひとつ別な表現に
  すぎないが――むしろまた、人間は自分自身に対して、現在の生き
  た類に対してのように振舞うからからであり、自分自身に対して、
  普遍的なそれゆえ自由な存在に対してのように
  振舞うからである。」
  (「経済学哲学草稿」『疎外された労働』)

    ※     ※     ※     ※

マルクスは、「類的」存在としての人間は、普遍的で自由な存在であり、人類として生き続けるが、「固体」としての人間は個別的に受苦的であり、自分の死をも自分で死ぬことができない存在である、というようにいっているようにみえる。

しかし、叙述の順番に従えば、失ったものは帰ってはこないし、現在は苦悩に満ち、将来はたいした希望もないが、つまり「受苦的」であるが、しかし、日々の人間の生きるための活動は、新たに人間と自然を生み出す活動は「人間的諸力」を発動し「自由な存在」としての普遍的人間を見出すといっているようにもみえる。

マルクスはたぶん、自然哲学の探求で固体まで降りていって、その受苦的真実に打ちのめされてから、類へと引き返してきて、歴史と社会に立ち向かった。その詳細なプロセスはわからないが、有象無象がごたごた絡まり、無残に敗北して斃れていった1840年前後のドイツ〜フランス革命の活動の中で様々な「個体的受苦」に出会った、であろう。

受苦的と普遍的、あるいは普遍的と受苦的な、引き裂かれた存在としての人間がここにみえてくる。


そのように引き裂かれた現在にこそすべてがある、この場所にこそすべてがある、といっているようにみえる。

※それにしても「マルクスがユダヤ人問題によせて」や「経哲草稿」を書いたのは、27〜8歳の頃で、大学を卒業してからいくらも経たない頃であった。なんということが、この世界にあるのか…。

※     ※     ※     ※

たぶん吉本隆明は、マルクス自然哲学のこのドラスティックな「逆説」のなかに、個人(幻想)と共同(幻想)が逆立するという共同幻想論のイメージを硬質な抽象の美しさと一緒につかみだした。

  ※     ※     ※     ※

矛盾と逆説に満ちた「共同幻想」を解明することは、(幻想的な)共同体の原理を類的な自由な普遍的な存在としての人間の原理にまで還元することであるだろう。
困難であっても希望と不安に満ちたそのプロセスのこの場所、にこそ類的な自由な自分自身が発見されるものかもしれない。

共同幻想論2 思想の根源としてのマルクスの自然哲学から

2009年02月27日

共同幻想論は、マルクスの自然哲学(疎外論)を読み込んで書かれた人間の観念に関する体系である。

■「カール・マルクス」における吉本隆明

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マルクス思想の3つの流れ

吉本隆明がマルクスを扱った論考は主要には「マルクス紀行」と「マルクス伝」の2つである。いずれも「共同幻想論」発表開始2年前の1964年に書かれている。これらの中で吉本隆明は、当時流布されていた「弁証法的唯物論」と「唯物史観」のロシア的マルクス主義からは想像もできない、一人の人間的思想家マルクスの「情熱と方法との相関の場」の核心から、「隣にいるような」活き活きしたマルクス思想をつむぎだした。もちろん、吉本の理解が正しいのである。

「マルクス紀行」は1964年にかかれ、マルクスの思想形成を3つの流れに分けて「紀行」して、明晰に取り出している。

  「私の現在の理解では、マルクスの思想体系は、二十代の半ばす
  ぎ、一八四三年から四四年にかけて完成された姿をとっている。こ
  れは『ユダヤ人問題に寄せて』、『ヘーゲル法哲学批判』、『経済
  学と哲学にかんする手稿』によって象徴させることができる。
  〜略〜
  これらの論策で、マルクスは、宗教、法、国家という幻想性と幻想
  的な共同性についてかんがえつくし、ある意味でこの幻想性の起源
  でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済
  的なカテゴリーの骨組みを定め、そしてこれらの考察の根源にある
  かれ自身の<自然>哲学を、三位一体として輪のようにむすびつけ、
  からみあわせながら一つの体系を完結したのである。
  〜略〜
  いま、かれの、全体系をたどろうとするものは、たれも、かれの思
  想から3つの旅程を見つけることができるはずである。
  ひとつは、宗教から法、国家へと流れくだる道であり、
  もうひとつは、当時の市民社会の構造を解明するカギとしての経済
  学であり、
  さらに、第三には、かれ自らの形成した<自然>哲学の道である。
  (「カール・マルクス」『マルクス紀行』)

ここには、すでに「共同幻想論」のありかを見定めた吉本隆明がいる。吉本は「市民社会」を喫緊の課題として資本論にいたったマルクスに対して、「幻想性」を根拠とする思想をつむぎだそうとしていた、であろう。まさしく歴史的過程と幻想の過程は「逆立」するようである。
そして、吉本からみえるマルクス思想の「根源」は自然哲学である。

つまりマルクスはまず「自然哲学」において、その思想の方法を獲得して、その後の「宗教から、法、国家」の考察にこれを展開し、さらに経済学へとと展開した。

思想の根源としてのマルクスの自然哲学

マルクスは1841年、24歳のとき学位論文「デモクリトスとエピクロスの自然哲学について」学位を取り、社会へと出発した。青年マルクスは流れ的にも、自然哲学から出発したのである。
吉本隆明のマルクス自然哲学の「紀行」は、マルクス哲学の高度な抽象度において、高度に抽象的であり晦渋である。
吉本によるマルクス自然哲学の形成は以下のようである。

  (エピクロスの哲学の)第一に、<霊魂>が微細な物体であるという概念、
  そして第二にこの物体が身体にくまなく分布され、かこまれている
  という概念は、自然が人間の<非有機的身体>となるところに人間の
  本質があるというマルクスの<疎外>の概念を生きたままうつしてい
  る。
   (「マルクス紀行」)

(「うつしている」のは現実にはもちろん、エピクロスでなくそれから2000年後のマルクスのほうである。吉本は、無論マルクスを読み、マルクス理解のためエピクロスを読んだのである。)

わたしなりに翻訳すると、以下のようである。

「霊魂」とはエピクロスにあっては、人間のもっとももっとも大きな感覚の要因である、とされているもの、感覚の源泉である。感覚とは「知覚」とか「感性」とかであって、モノや自然やの対象を感じるものである。したがって霊魂とは人間によって感覚された対象的な(対象的、とは人間が、じぶんの活動の対象として自分のもののように取り扱うことが出来る)自然であり、人間的な自然である。人間的な自然は、人間の、すでに身体の一部である。
マルクスは、これをほぼそのままマルクス的に言い換え、「自然が人間の<非有機的(=意思のない)身体(人間の一部=人間的自然=人間にとって有用なもの=「価値」)>となるところに人間の本質があるといっている。
そして霊魂によって「身体がくまなく囲まれている」という概念は人間が自然から逃れられない〜自然の秩序の中でしか生きられない存在であることを示している。

これを、簡略化してしまえば、人間は自然を自分に取り込んで、食べたり、衣類にしたり、住居にしたり商売にしたりして生きている。一人ひとりがじかに自然を取り入れそのようにしていればこれが人間の、本来的な姿である、ということになる。しかし、そのとき人間は自然の内部にあって、その強い制約の中でしか生きられないものである。

(あえて平易にするとみもふたもないのは、抽象というものの力、が効かないからであろう)

(人間の本質とは、マルクスの用語では「類」または「類的本質」とされ、「単なる固体」ではな「客観的な普遍」、つまり人間のあるべき姿を意味する。それは解放された自由な存在であるとされる)

(詳細な説明なしに、哲学の教養らしい教養もないわたしたちには到底理解でるようようなものではなかった。それは今も同じである。ただ、昔よりは多少忍耐強く、多少人間というものを見限っているだけである。こんな箇所に拘泥するより、この項最後の吉本のまとめや、次項のマルクスのじかの言葉のほうがよほど明快にすがすがしいように思われる。
つまり、出来上がった結論から先に見るほうが、である。)

ここから、マルクスはフォイエルバッハによって、自らの「自然哲学」を完成するがこのプロセスには、マルクス哲学の核心である、劇的で感性的な飛躍と逆説(相互規定性)が含まれている。
吉本に拠れば、以下のようである。

  もし、ここにフォイエルバッハによってつきつめられた「動物はた
  しかに固体としては自己に対象的になっている。それ故にこそ動物
  は自己感情を持っているのである。しかし、動物は種族としては自
  己に対象的になっていない」という、意識の自然性と人間性につい
  ての洞察を接ぎ木するならば、<霊魂>、<物体>、<身体>、人間の<
  意識>の普遍性という連鎖の中で、マルクスの<自然>哲学としての<
  疎外>、いいかえれば、<非有機的身体>と<有機的自然>との関係は
  おのずから形成されることを知ることができる。かれはフォイエル
  バッハ』を現存性の踏み台として、エピクロスの自然哲学を、徹底
  したすがたで蘇生させたのである。
    (「マルクス紀行」)

      
    若し植物が、眼、趣味、判断力を持っていたとしたならば、ど
    の植物も自分の花こそ最も美しい花であると断言するであろ
    う。なぜならその植物の悟性やその植物の趣味はその植物の本
    質の生産力以上には達しないだろうからである。
      (フォイエルバッハ「キリスト教の本質」)
  ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、ほとんどマルク
  スと紙一重であることをしることができるはずだ。
    (「マルクス紀行」)


    
マルクスがフォイエルバッハを踏み台にして手に入れたもの、とは「種族」という概念を拡張した「類」という概念である。または「類的存在としての人間」、という概念である。
吉本は、マルクスはエピクロスの死の考え方に影響を受けて、「死」と「類」とにこだわっていたのだという。わたしには、マルクスの死についての理解がどこからきたのかは明証的でない。確認できるのは、フォイエルバッハが用いた「種族」という概念を、マルクスが「類」にまで拡張し、昇華したということである。
    

  類的生活は、人間にあっても動物にあっても、肉体的にはまず第一
  に人間が(動物と同じく)非有機的な自然によって生きていくとい
  う点に存するのであって、人間が動物よりも普遍的であればあるほ
  ど、人間がそれで生きていく非有機的な自然の範囲はますます普遍
  的である。植物、動物、、石、空気、光、等々はあるいは自然科学
  の諸対象として、あるいは芸術の諸対象として、理論的に人間の意
  識の一部をなしている――
    (マルクス「経済学哲学手稿」第一手稿『疎外された労働』)

非有機的な、つまり意思を持たない自然に働きかけて、「自然の産物のみによって」、人間に有用なもの=すなわち価値を生み出し、肉体的に生きていく点では動物も人間も同じだ。
ただ人間は「普遍的(=たんなる固体でない客観的普遍)」であることによって、科学や芸術といった精神の営みでも自然を人間の一部に取り込む、つまり精神の対象としても自然を扱い、科学的または芸術的に有用なもの=価値を生み出してゆく。
すなわちそのような「普遍」的な存在としての「類的」生活の中にこそ肉体的にも精神的にも人間的な本来の生活はあるのであって、逆にいえば、生物的な「種族」ではなく「普遍的な類」であることが人間的本質なのだといっている。

「類」とか「普遍」とか言う用語が、ほぼ人間としての本来の姿、というような意味に使われる。
しかし、「類」であることは死においては以下のように現れる。

  しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、
  そのようなものとして死ぬべきものである。
    (マルクス「経済学哲学手稿」第三手稿『私的所有と共産主義』)

死は、いったいどのようであるか、という考究を通じてマルクスは「類」という概念にいたる。
「類」とは上記のように、たんなる人類の一員ではなく、「客観化された普遍」であり、自由な存在、ある。

吉本の解説は以下のようである。

  <かれ>の個体が<死>ぬと、<かれ>と<自然>とのあいだにあった<疎
  外›関係は、いいかえれば<かれ>が自然をかれの<有機的身体›とし、
  かれ自身は自然の‹有機的自然›となるという関係は一つの空孔をもつ。
  この空孔は、たれか他の人間の‹自然›との‹疎外›関係によって空席
  をうずめられるはずである。そういいたくなければ‹かれ›の個体の
  死は、必ず他人に影響をあたえるはずである。〜略〜‹かれ›の死
  は、必然的に他人にとっても恐ろしさや悲嘆の妄想となってはねか
  えってくる。マルクスの‹自然›哲学では、‹自然›を媒介にして‹か
  れ›と他の人間とはぬきさしならぬ関係、つまり‹疎外›関係として表象されるのである。

一通りのことはこの説明で了解はできる。しかし、この説明では、追究されるべき‹疎外›概念が既成のものとしてあるようにみえる。明晰さがあるとはいいがたい。

思うにエピクロス自然哲学を背景に、フォイエルバッハ「キリスト教の本質」を検討する中でマルクスは、人間のあるべき姿を宗教の外、にもとめた、であろう。
宗教の外、とは人間を救済するが、現実の支配秩序でもあるところの、あるべき人間への桎梏と化した「宗教」、という「共同幻想」の外である。
すなわち世俗の世界である「市民社会」である。
世俗の社会での人間(の本質)は、自然をじかに我が物とし、そのことによって宿命的に受苦的な生を(自然との疎外)、それでも自分を頼って自立的に、生きる普遍化された存在、すなわち「類」的存在としての人間である。これが、本来的なまたは原初的な人間の姿である、と感知されたであろう。
(だからこそ、完成された自然哲学をもって、マルクスは「共同幻想」ではなく市民社会の、自然への働きかけの仕組みであるところの「資本」の解明、へと向かう以外の道を選ばないであろう。)

このような市民社会においては、人間は「類」的存在であり、個人の感情や意思とはかかわりなく、「類」として、死ぬのである。あるいは死において「類的本質」であるほかないこととなる。
このとき、本人や他人の「感情」や「思い」は捨象されている。それらを救い出すことはまた別の、すなわち「幻想領域」を扱う共同幻想論の(または自己幻想としての文学や、「性的関係」としての家族や生活共同体の)課題である。

(マルクスには「自己意識の無限性」の表象である宗教は観念の世界の堂々巡り=循環論法でしかない、と感じられたであろうか。しかしじかに人間の本質が現れる「市民社会」=「資本」の世界においても、「貨幣」という「非対象的な化け物」(「経哲草稿」『ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判』)が待っていたのだ)

(吉本はやや強引に‹関係›概念を導入したがっているようにみえる。それは詩から出発した吉本が観念の世界を救出しようとしているようにみえる、のである)

完成されたマルクス自然哲学は吉本によって以下のようにまとめられる。

  全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうる
  という人間だけが持つようになった特性は、逆に、全人間を、自然
  の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、こ
  の全自然と全人間との絡み合いをマルクスは<自
  然>哲学のカテゴリーで<疎外>または<自己疎外>とかんがえたので
  ある。
   (吉本隆明「カールマルクス」『マルクス紀行』)

完成された姿は美しく、むしろとてもわかりやすい。

あえて、わたしの言葉にしてみれば、以下のようである。

人間は生きていくうえで、自然を活用し加工し自分のもの(=価値)にしていくことにより普遍的な本来の自分(類的本質)を実現し、希望を持てる。ただし、だからこそ、人間は逆に自然によって制約される。(つまり自然にたよることとなり、様々や制約や矛盾がおきる。自然災害によって苦しめられたり、自然破壊を引き起こしたりする。)

人間はもともとそのような両義性(矛盾)に満ちた、ある意味「受苦的」な存在である、というマルクス思想のもうひとつの核心が、そこにはある。

共同幻想論1 わが1973年の共同幻想論

2009年02月24日

共同幻想論は「文芸」1966年11月号に初めて発表された。
2年後、1968年2月に雑誌発表の前半6章に加え、後半5章を書き下ろして「共同幻想論」は世に出た。
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おりしも高度成長絶頂期と学園紛争高潮期にあたり、政治的言語は波瀾を予感させたが、経済社会は政治ごときに微動もしないのであった。
田舎の文学少年であった私はたぶん1971年に、吉本氏に手紙を書いている。(夫人の手になる丁重なふっくら温かい気持ちになるはがきの返信をもらった。何を書いたかは、覚えていない。)
1973年高田馬場の大学に入った私は、文学サークルに入り、小数の友人と交流しつつ、文学や政治に半ばポーズじじみて熱中していた。優秀で早く世に出る知己もいたが、そのような「モノ」になる詩人や文学者は、信じられないほど努力をするものだということを知り、内心衝撃だった。私は吉本隆明の「詩は修練で書けるようになる」という言葉を救いにして詩を書いたりしていたが、続きもしなかったし、ほんとうはたいして真剣でもなかった、かも知れない。

時代の中で、時代に隔てられて、心情的には傷つき揺れ動きながら、文学の周りをうろうろしていたわたしたちには、時代を超越したような古典的な風格に満ち、また難解なこの書物は埴谷雄高の「死霊」とともに一種の畏怖に満ちて語られる存在だった。
(わたしは、たぶん、ミーハーな文学青年として1974年に埴谷氏の吉祥寺の、蝙蝠がでてきそうな、ヒイラギの生垣のりんとした「深い」自宅を訪ねた。夫人にもあった。埴谷雄高の「深い」やさしさは忘れられない)

■倫理としての吉本隆明
組織に属さず、一人立ちして、絶望の淵から「大衆の原像」を武器に既成の権威をなで斬りにする吉本の姿は強烈に印象的だった。それは「反逆の倫理」(「マチウ書試論」)を掲げて悪にたち向かうヒーローのようにわたしたちの胸に刻まれた。
また「固有時との対話」の孤独と絶望の淵から、「転移のための十篇」へと限りなく重苦しく、しかし鮮烈に論理的に「社会へと相渡り」、「ばら色の切符」を取り出して見せる、大衆化社会の希望のように、わたしたちの胸に刻まれた。
わたしたちにとっての吉本隆明は何よりも「生き方」であり、論理であるよりも「倫理」であり、そのようなものとして今までも、今もわたしたちの根拠でもあり、だからこそ、また逃れることのできない軛でもあるように思われる。
■「情況者」吉本隆明
「前世代の詩人たち」に始まり、「転向論」、「社会主義リアリズム論」、「戦後世代の政治思想」、「擬制の終焉」、「試行社」、「自立の思想」、「情況への発言」、「情況」と続く1950年代〜60年代の吉本隆明は、何よりも「現在」と「時代」をかき鳴らす情況の人、だった。
そのようなものとしてわたしたちの中に切迫した時代の音ををかき鳴らし、わたしたちは私たちの中に抜き差しならない「情況」を感知し作り出していた。
■「思想家」吉本隆明
1960年代「言語にとって美とは何か」に始まる、体系的原理的な論理的大作は、その晦渋さ難解さもあいまって、あるいは難解な故にこそ、知的なヒヨッコであるわたしたちを畏怖させた。
ことに共同幻想論は「国家も共同幻想である。社会も宗教も党派も風俗も共同幻想である」といった強烈で情況的なニュアンスを含む言説によって「世界を凍らせる」ようにわたしたちに響いた。
この頃の「共同幻想論」は「情況の人」であり「思想の人」でもある巨大な吉本隆明を象徴するものだった。
私たちは「国家は共同幻想である」とか「国家は共同幻想でしかない」などと浅薄にこの言葉を振り回していたが、一度もきちんと読んだことはなかった。

情況の人、吉本隆明がいかにして思想の人となり、倫理の人吉本隆明がいかにして論理の人であるのか、ついに理解できず、理解できないまま「この世界」のように遠ざかっていくの茫然と見ていた。

  ※     ※     ※     ※

「政治の季節」の終焉の儀式ででもあるかのような凄惨な党派の解体と殺戮の時代に、展望も希望もはっきりしない無力感と、この社会のこの現実に参加できないでいる焦燥にあえいでいたわたしたちは、そのまま何事もなく別れ、いまもばらばらに社会を漂っている。
私は、しかしわたしたちを傷つけ黙らせばらばらにしたあの時代を何とかわたしなりにつかんで、ばらばらにしてしまいたいという思いを引きずっていた。

  ※       ※       ※      ※

1974年に柄谷行人は「マルクスその可能性の中心」を書き、「資本制生産が、差異を同一化する貨幣そのものの神秘性に胚胎する」「だから貨幣を放置したままで、資本制社会を論じることは無意味なのだ」といっている。
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1991年、岩井克人は「不均衡動学」を手に「貨幣論」を書き始める。
「紙幣は流通するから価値を持つ(マルクス『経済学批判』)」「貨幣という存在は、自らの存在の根拠を自らで作り出している存在である。それは、全体的な価値形態Bと一般的な価値形態Cとの間の無限の循環論法によって、宙吊り的に支えられているに過ぎない」「貨幣が貨幣として流通しているのは、それが貨幣として流通しているからでしかない」
と貨幣がまさしく共同幻想であることを述べている。
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また「貨幣がまさに一般的な交換の媒介でしかないということが(そして一般的な交換の媒介である限りにおいて)、貨幣にその実体性とはまったく独立な流動性という名の有用性のごときものを与えてしまうのである」と資本への転化、金融資本制への転化を述べている。

  ※     ※     ※

この貨幣論で得心の行くところがあって、30年以上前の積み残しを、できるだけ現在の関心に引き寄せて、古ぼけた書棚から取り出してみる気になった。

まさに時代は変わり、時代は動く。
この35年ほど、さして進展はないかとも思われた「世界認識」や「生き方」はしかし、遅々としながらも動いているように思われる。

政治の季節は、多くの傷を残して去ったが、現代もまた多くの傷を生み出す時代なのである。
失ったものは失ったものとして帰ってこないし、傷は傷としていえることはないが、それらを読み解くことで、新たな場を感じる=獲得することはできるだろう。
少しでも一歩でも、ほんのわずかでも、そのような課題を自分に課して、
私はわたしに近づきたいと思う。

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