おせちの古代史的近世史的註 その4なぜ日本の江戸期に市民革命は起きなかったか――コトダマのクニ・日本

2008年01月12日

フランス革命と日本江戸期

なぜ、幕府・諸藩の元禄後期以降の財政危機、1732年享保、1782天明、1833年天保と続く大飢饉と混乱に際して、重税にあえいでいるはずの市民による市民革命は起きなかったか。

フランスではルイ14世の超がつく浪費で1.45億ルーブルの歳入に対して30億の国債残高という財政破綻になった。後、ルイ15世時代の積極策が一時財政改善に寄与するが、結局はバブル化して裏目にでて1720年には経済が破綻してしまう。対応に窮した政府は「公共事業」または景気刺激策としての戦争の連続に突入する。
その結果がまたしても財政破綻を招き、ついには1789年6月18日新規課税をめぐる三部会をきっかけに混乱が始まり、国王は軍隊を招集し、平民に同情的な財務長官ネッケルを罷免した。これに怒ったパリ民衆は7月14日バスチーユの火薬庫を襲い、火薬の引渡しを要求するが、トラブルになり、暴動化する。これが全国の農民や地方都市に連鎖して、翌年国民議会の承認を勝ち取るにいたるのである。その後革命は急進化し、ついにはジャコバン独裁にまで進展した後、右派の反動にあい、ナポレオンのクーデターや王政復古、1830年の七月革命、1848年の二月革命、1870年のパリコミューンを経てようやく第3共和制として定着するにいたる。

日本では、5代綱吉の浪費と、商品経済の進展によって、元禄末期、幕府財政は大きく窮乏した。それなのになぜ1700年代に市民革命が起きなかったのか。なぜ武家勢力が主導する明治維新が市民革命を中途半端に代行することになったのか。

ひとつには、新井白石と8代吉宗による緊縮財政による成果で一時的に財政状況が改善したこと、があろう。
しかし、享保飢饉以降は田沼時代を除いては、財政は常に逼迫し、経済も飢饉や米の価格の乱高下で、ともに破綻に瀕していたであろう。
百姓一揆の数はおびただしいのだ。
それにもかかわらず、平民階級による反乱や革命にはいたらず1860年代まで徳川幕藩体制が揺らぐことはなかった。

大きくは2つの説が唱えられているようだ。

@日本では資本=ブルジョア階級の熟成が不十分であった。
A日本ではお上意識(封建的身分秩序と古代的神話的感性)が強く、権力に反抗する思想がなかった。

結論から言うと@もAもあり、さらにB徳川家康の巧妙な支配体制が反抗勢力を徹底して弾圧していたから、ではなかろうか、と、遠く思ってみる。
@については、商業は発達していたが、科学的生産や、発明技術が十分に発達せず、広がらず、したがって産業資本の構築にいたらず、新しい社会を主導するに足る「層」を形成するにいたっていなかったのではないか。また鎖国により海外交易が出来なかったことも一つ数えてよいかもしれない。その結果他のクニの状況を知らなかったこと、も間接的な要因ではあるだろう。

フランスでは、清教徒革命の後、議会を持ち責任内閣制を成立させ、産業革命の進むイギリスと、封建専制制にこだわるオーストリアハプスブルグ家の間に自らを置き、位置と姿勢、を判断することができた、であろう。

また農民勢力との連携を持つにいたらなかったこと。町人に対する統制は、農民に比べて優遇されていた。税率も低く、衣服や食事や生活に対する統制も緩やかだったので、町人層からの反幕府思想は育っていなかったであろう。

それ以前に、農業技術の改善が進んでいなかったために、「農業が遅れている」現実があり、農民勢力は勢力として結集し得なかったのではないか。百姓一揆はあっても、社会的支持を受けられなかったのではないか。
開拓農民である新興武士勢力が土地の所有権を要求した中世農本革命時のような、勢力を形成していなかったのではないか。したがってまたフランス革命にあるような共和制思想も、成立していなかった、であろう。

Aについては、おせちに見たとおり、町人階級といえどもコトダマの支配する古代的要素を残しており、また万世一系であるかのような神官職の天皇家の存在や、古事記の研究・水戸学派の影響、朱子学の教養の高さ、もあったろう。
天皇家はもちろん、オオクニヌシも道真も秀吉も家康も神になってしまう、不思議な共同体意識は、このシマグニに根付いているかもしれない。
したがって、フランス革命時にあるような人権思想も育っていなかった、であろう。
(この状況、人権思想の不在、は1970年ころから1993年ころまで、残っていたのではないか、のこっていた、であろう。

Bについては、まずは徳川家が圧倒的な武力的優位を確保していたこと、言い換えれば武士の中枢層が町人支持に回っていなかった、ことがあろう。士農工商の身分制や大名支配の強さもあったであろう。江戸中期では、武士は、商人によって困窮を強いられる意識が強く、被害者意識もあったかもしれない。
明治維新が可能になるためには、武士でありながら商業化した長州と薩摩が(正しくはそのうちの開明的な下級武士が)、封建制を打破し、近代的な独立国をつくるために、手を結んで立ち上がらねばならなかった。

古代農耕社会(律令社会の統一国家)は、コトダマの主シャーマンを廃棄せず、むしろ開明的なシャーマン勢力(天皇家など)が革命化することによって、成立したであろう。
武家革命は、天皇家の支流である武家の頭領・源氏をいただくことによって、大義名分(コトバ)をもち、大義名分が多くの武家を革命に結集し、成功させたであろう。
明治維新は、下級武士が実権を握るようになった武家の雄藩が、産業化し、ひそかに海外の思想(コトバ)を導入しながらも、倒幕の本流は尊皇攘夷を口にし、ついには古代以来の神官・天皇家を持ち出すことによって官軍という大義名分(コトバ)をもち、武力的劣勢をコトダマ的優位が転回させ、現実化したであろう。

このクニは、どこまでもコトダマのクニであるか。はじめにコトバありき、とはこんなことでもあるの、だろうか。
そしてそれは、古代から連綿と続くこの社会にあって、コトダマ共同体を愛惜する古代的思想や嗜好となって、今も続いているだろうか。
しかるがゆえに、われわれは、ブリア・サバラン的でない、江戸中期のおせちを、今も愛惜し、古代的神饌(お供え餅や雑煮)を愛惜するのであろうか。

もしも、想像することが、できるなら、できるはずであるが、江戸期に市民革命がおこなわれていたなら、おせちは、その後の新興市民勢力のものとなり、てんぷらも、サツマイモも、ジャガイモも入っていたのではないか。食はもっと伸びやかに、身体と精神の自由を媒介するツールとなっていたのではないか…。妄想、である。

※いずれの革命も、自前の思想的領導者を持たなかった。
古代革命は中国律令制と儒教(広まらなかったが)を、実用的に拝借し、武家革命は土地争議仲裁所に終始し、明治維新でさえ、イギリスのスポンサードの下に、坂本竜馬と勝海舟の仮想のヨーロッパ思想の下、行われた。
わずかに織田信長とそれに続く一時に、だけ、夢のようなビジョンが見られていたかもしれない。
その強い残滓を浴びつつ現実政治に徹して生き残り、覇権を獲得した家康政権は、それゆえ反動的に、徹底した封建思想を持ち、力づくの強力かつ巧妙な支配体制と、そのコトダマとしての儒教の国学化を推し進めた、といえようか。

おせちの古代史的近世史的註 その3ミニ江戸経済史

2008年01月11日

若い商業精神の日本的プロテスタンティズムはどこへ往ったか

【前期1600年代】 復興上昇期

◇1600〜戦後復興期

◇1630年代〜封建制の相対上昇安定期 かぶきもの、尾形光琳、貞門俳諧、日光東照宮

◇1688〜1703年 成長成熟期 元禄時代〜好景気、米経済・上方文化全盛期 荻原重秀による貨幣政策、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門、友禅染、江戸では歌舞伎、菱川師宣、湯島聖堂、浮世草子生類憐みの令
1697年「農業全書」宮崎安定

【中期1700年代】前半 相対停滞期

◇1709年〜新井白石 正徳の治 
◇1716年〜45年8代将軍吉宗と儒学系学者による享保の復古的改革、米価乱高下、甘藷栽培、荻生徂徠、
1709年「大和本草」貝原益軒
1732年享保大飢饉

【中期1700年代】後半 成熟拡大期

◇1767〜80年代 田沼意次による近代化時代。通貨制や商業税、事業税を初めて定めた。
海保青陵、富永仲基、山片蕃桃、本田利明による経済思想・合理主義。
平賀源内による科学精神、本居宣長による人間性称揚、塙保己一による書誌学的実証主義、蕪村、一茶、山脇東洋、杉田玄白、丸山応挙…。

1752年安藤昌益「自然真営道」
1782年〜天明大飢饉

加賀、仙台、米沢、熊本、松江、秋田など藩財政改革で商業化。

【後期】前半1787〜1840年 爛熟頽廃期

◇1787年〜 寛政の改革 超保守派・松平定信による反動的改革、寛政異学の禁、

◇1793年〜 11代将軍家斉による大御所政治・化政文化
1821年二宮尊徳、小田原藩政指導(倹約主義)
1827年「経済要録」佐藤信淵
1829年「農政本論」佐藤信淵
1830年おかげ参り
1833年〜天保大飢饉
1837年大塩平八郎の乱
1839年蛮社の獄

※長州、薩摩、佐賀、の重商化・洋式化、水戸の藩政改革

【後期】後半1841〜1868年 混迷解体期

◇1841年〜43年 水野忠邦による、時代錯誤的改革から暗黒と混乱の20年 町人を対象に広げた贅沢禁止倹約令・風俗取締り、株仲間禁止、人返し、上知令
◇1853年代 幕府・雄藩による海外貿易、物産奨励時代
1859年「広益国産考」大蔵永常

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商業化の始まりー大坂・元禄

そもそも日本封建社会の根幹である米の集散は、秀吉によって開かれた若い夢の都、当時の海運の中心地である大坂(おおざか)に集中していた。また、その他の商品経済の中核は、多分北前船の運ぶ東北や北海道の産物であったろうが、その中心はやはり大坂にあった。もちろん商業集積も、資本も大坂により多く集中していたのであって、この経済格差は、多分1970〜80年代まで確実にあったような気がする。
その間大坂(大阪)は日本全体の経済と文化の中心であり、井原西鶴や近松の元禄文化に始まり、多くの文化や産業やを生み出した。
(人口を見ると大坂は38万程度で推移。京都は比較的安定して35万前後で推移)

消費型エピキュリアン経済センター:江戸1700年代

1700年代享保年間には、江戸は人口100万に近く、巨大な武家社会を抱えて、一大消費市場であった。
 ※江戸の人口:統計は町方支配の町人の人口と寺社方の人口について
  は公式なものがあるが武士人口の統計はない。享保年間に始まって
  おり、享保6年(1721年)には501394人の町方人口が記録されてい
  る。寺社方人口は享保18年(1733年)に68059人を数えている。武
  士人口は20万人程度から60万人くらいまでの推計がなされている
  が、全部を合わせると少なくとも80万人以上の人口はあったかと推
  計される。1800年代以降は100万以上と推定される。

全国の商流・物流センターである、大坂に対し、大坂からの「北前船」の運ぶ物産(昆布や、干しいわしや、紅や…)を関東に集散する基地であり、また上方産の着物や装飾工芸品や、全国からの材木や、灘の酒や紙や陶器や、桐生足利の絹や川口の鋳物や野田の醤油など…を扱って利益を上げる、関東の経済センターであり、より消費型、享楽型、個人型であったろう。

ここに旗本の次男坊以下の「かぶきもの」や、商人たちの自立思想としての芭蕉以来の風狂や、娯楽や享楽的態度を重視する浮世絵や歌舞伎や狂句や滑稽本が現れたであろう。

田沼時代の目覚しい経済改革と農業の無策

1700年代後半、明和・安永・天明年間は側用人上がりの田沼意次が実権を握り、積極経済に転じた。
幕府直営事業の座により、金・銅・朝鮮人参・ミョウバンを専売化して財源確保に努めた。
問屋制手工業、工場制手工業の拡大をみて、株仲間を公認してさらに発展を促すとともに、冥加金を課して財政改善と産業振興に努めた。しかし、冥加金の金額は納める側の任意でよく謝礼的な意味で解釈されていたようだ。
秀吉が堺、博多、京都、大坂を直轄地として支配していた事例もあるが、おそらく史上初めての商業一般への課税の試みではあったであろう。
(米の収入は年に130万両程度、幕府の貿易担当部門、長崎会所の上納金は年に2万7000両だった)
貨幣制を改め、金銀相場制を金1両=五匁目銀12個、という定位貨幣制とし、信用貨幣制の先取り的改革を行った。また海外貿易の振興策に手をつけ、長崎貿易の禁制を緩めた。

経済改革は目覚しく、商業は活性化したが、農業=米=食糧対策はお寒く、主要には民間資本導入策でも有名な印旛沼、手賀沼の埋め立てによる新田開発くらいであろう。農業技術も、思うほどには進歩せず、享保・天明・天保の三大飢饉のたびに人口は大きく減り経済は大きくダメージを受けた。
このシマグニの古代専制制も封建制も、農業や農民を収奪の対象としか見ておらず、有史以来まともな農のビジョンは存在しない。現在も、である。
また、このシマグニでは古来、豊かになった農民は、農を見捨てて収奪者に成り果てていった。

※商業者に対する課税は、臨時的なものはあったが、通常には1割、5分、などという率で、軽いものであったようだ。

※もしもフランス革命におけるように、というより前代の加賀一向一揆のように農民が自立的に革命に参加し、農業者の自立と権利を主張していたらば…。または田沼政権が農業の構造改善と農業者の権利の拡充に取り組んでいたらば…。……妄想、妄想。

結局、田沼意次は、封建制のウミとも言うべき賄賂の横行で評判を落とし、天明大飢饉で干拓事業なども挫折し、後継者もなく、商業活性化政策も武士たちの積極的支持を獲得するにいたらず、将軍家治の死とともに失脚する。同時に、日本近代化も100年ほど遅れることになった、であろう。
わいろは、停滞的な封建社会の特徴的な病だ。もっともっと自由な商業精神が育つことでのみ克服できるだろう。
農は、と書きかけて、困ってしまう。日本封建制は、なぜもっと積極的な増産に取り組まなかったのであろうか・・・。

科学的実証主義とパイオニア精神は

また、商業の発展を土台に、多くの合理主義的思想が、幕府の朱子学奨励の殻を破るように現れた。
新井白石の合理主義に始まり、富永仲基(大坂)の経済論や懐徳堂、海保青陵(丹後から全国漫遊、加賀藩財政改革や各地での物産奨励策)、本多利明(越後出身、科学を学び西域物語で西洋事情を紹介、経済総論で重商主義を展開)、山片蟠桃(大坂出身、無神論と商業経済論、仙台藩の財政改革)らが、商業重視の社会改革を唱え、実務的な経済化としても藩財政の改革や物産開発に貢献した。
この時期は、わが国史上、最も、というか、唯一、独自の経済思想が盛んだった時代ではないか。

さらには、平賀源内による科学精神、本居宣長による儒教的礼節ではなく「もののあわれを知る」人間性称揚、塙保己一による書誌学的実証主義、伊能忠敬による日本地図作り、などがフランス百科全書派的な社会啓蒙に勤め、科学的な実証主義とパイオニア精神が同時に花開いた、かに見えた。
目の前の現実に、自力で対処しようとする、プロテスタンティズムの精神(節約・勤勉・克己)にも似た、更にはピューリタニズムにも似た、パイオニア精神にも似た、自立的な、実践的な思想者の時代、といえようか。
新しい社会への希望が、人々の胸に芽生えた、であろう。

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<これら、新しい精神はどこへ行ったであろう。1787年松平定信が寛政異学の禁を持って歴史に登場すると、雲の子を散らすように、消え去り、わずかに伊能忠敬の日本地図つくりが細々と続き、外国船が到来し始めるなか攘夷思想が跋扈し始め、さらには水野忠邦・鳥居耀蔵の蛮社の獄で、完全な混乱時代に突入することになる>

<このころ田沼派が実権を握り続け、反武士の町人勢力が蜂起して、市民革命が起きていれば…なんて妄想妄想。

おせちには、てんぷらも入り、ジャガイモやサツマイモも入り、もしかして肉も入っていたかも、知れなかったが…。
しかし、このシマグニの現実には、外来思想の儒学、とりわけ朱子学が根を張り、商業と個人をさげすんでいた。さげすんでいただけではなく、弾圧さえした、のだ。
商業が、さげすみ、から開放されるのは、商業界倉本長治1948、ペガサスクラブ渥美俊一1962、主婦の店ダイエー中内功1957年、を待たねばならない。外食業にいたっては、1970年代のファミレス・ファーストフード群の登場まで待たねばならなかった。
恐るべし、朱子学。恐るべし、日本封建遺制>

おせちの古代史的近世史的註 その2江戸期 町人おせちの誕生の経済史

2008年01月08日

町人おせちの誕生―鉄格子のような封建制のなかの清新な商業化時代〜1700年代

徳川3代将軍家光の時代に幕藩体制が確立安定し、参勤交代により、全国の大名が江戸に屋敷を持ち、江戸詰めの侍を多くおくようになって、江戸は消費都市として形成された。江戸の庶民の暮らしが安定をし始めた、元禄期(1688〜)の最初の高揚期を経て、江戸中期(大雑把に1700年代、か)には、、商業資本は本格的に成熟してきて、江戸町民は商品経済により、富裕と安定を獲得し、「公」ではないが、社会の主調的地位を得た。(これが「公」にならない奇妙さを、これ以降われわれの近代は引きずることになる)
現金掛け値なしの越後屋呉服店(1673年創業)の三井高利や、享保(1716年から)年間に創業し、新島で野菜を栽培したり、逗子から早船で魚を運んだ江戸料理の八百善など江戸町民は、合理精神と探究心と独創性を持って商売した。寿司がはやり、うどんやそばが定着し、とても巧妙にして重い、鉄格子のように頑丈に出来ている江戸封建制の枠の中に清新な人間味のある、商業時代を出現させた、のではないか。
江戸町民のおせちはこのような時代を背景に、生み出される。

さて、おせちである。
政治=祭祀として米の確保を約束して見せることは祭祀の主宰者としてもっとも大切な仕事であったろう。江戸時代でも。
商品経済により、農耕の富よりもずっと合理的に富裕と安定を獲得し、社会の主調的地位を得た江戸町民は、天皇家よりもずっと合理的に富の確保を願ったはずである。

富永仲基や山片蟠桃の合理主義は、その辺の事情を語っているだろう。

古代からの言霊と現在的黄金信仰の奇妙なバランス

おせちはその精神的な趣旨から、おおむね4つほどに分類できようが、
古代的な言霊信仰に基づく、語呂合わせは庶民生活に色濃くつづき、
むしろ、言葉遊びの精神は最高揚期をむかえたようである。
江戸時代後期的な商業精神は黄金信仰に現れていようか。
根強い古代性と黄金信仰の奇妙な混在…もっと江戸的・町人的・革新的でも良いではないか…などと思ってしまうが。

@語呂合わせ<言霊コトダマ信仰)
1黒豆……まめ(健康)に暮らせるように。まめ、というコトバも使われなくなった。
2田作り……カタクチイワシなのに田作りというのは、江戸時代、高級肥料として片口いわしが使われたから、である。豊年豊作祈願の農耕社会風だが、商品経済ならでは、でもある。
3昆布……よろこぶ
4かちぐり……勝つ
5鯛(タイ)……めでたいに通じる語呂合わせ。
6橙(ダイダイ)……代々に通じる語呂合わせ。子孫が代々繁栄するように。
7錦たまご(ニシキタマゴ)……卵の白味と黄味をわけて、ニ色でつくった料理の二色(ニシキ)とおめでたく豪華な錦との語呂合わせ。この豪華さには商業精神がこめられているか。
8金平ごぼう(キンピラゴボウ)……ごぼう料理は江戸時代に始まった。当時、坂田金平武勇伝が浄瑠璃で大ヒットしていたので、豪傑金平にちなんで、金平ごぼうと呼ぶようになったという。英雄ぶり、商業精神の勁さの賞賛か。

A子孫繁栄イメージ
8数の子……たくさんの卵をもつニシンの卵は子孫繁栄
9里芋(サトイモ)……里芋は子芋がいっぱいつくので、子宝にめぐまれるように、との意。

B紅白信仰
紅白信仰は日本独特のものだ。そもそもは南方系の色使いだが、かぶきものや、儀式を通じて広く浸透していたようだ。
10紅白なます(コウハクナマス)……お祝の水引きをかたどったもの。11紅白かまぼこ(コウハクカマボコ)……かまぼこははじめは竹輪のような形をしていた。江戸時代の商業精神は様々な細工かまぼこを作り出し、祝儀用として粋なもの、かかせないものになった。

C黄金信仰
12栗金団(クリキントン)……この頃の栗金団は栗餡を丸めたもので、現在の形になったのは明治時代。「金団」とは黄金の団子という意味で、くちなしの実で黄色に色をつける。江戸時代的な華やかさ。
13伊達巻き(ダテマキ)……「伊達」とは華やかさ、派手さ。豪華でしゃれた卵巻き料理ということか。

北前船が運んだ江戸の富とおせち

すでに寿司(生魚ではないがつかみ鮓の屋台はあった)やそばは江戸に広まっていたが、多分、一汁一菜、か二菜であった庶民の普段の食事から見れば、大ご馳走だ。
全国物流の成果が反映されて、北前船が北海道や東北から大坂へ運んだであろう田作りや、数の子が、江戸町人の食卓に上がっている。
まさしく江戸の商業的成果、であり商人の勲章でもあったろうか。
また商業的発展の結果の富によって、食卓というほどの、食卓を囲むことのなった庶民が、鯛やかまぼこや栗金団や伊達巻を、正月の膳に上らせることができるようになった思いはどのようなものであったろう。
未知の食文化が開拓されて、食卓で共有されるとき、人々の精神世界は大きく広がり、時代は大きく移ろうとしていた、に違いない、のだ。

消えた大航海時代の食の幸

しかし、食材や料理法的には、そのころ江戸に入っていた新しいたべもの、たとえばごぼうは新しく食べられる新食材として金平になったが、同じ新スタイルのジャガイモもサツマイモも、てんぷらも入っていない。これらはまだ十分普及していなかったか、経済的に少しゆとりが出た、あるいは明日の米の心配をしないですむ程度の町人には手が出ないものであったのか。

日本封建制の重さ

また、(ブリアサバランのような)科学的な態度での栄養や健康への考察や自由な人間性の現われとしてのグルマンディへの意思や、美食への欲求や…は、あまり感じられないのではないか。
ある程度に清新ではあるが、この清新は、同時に進む幕府の町人文化弾圧におののき、みずみずしい水分を大量に失っているのではないか。荻生徂徠や平賀源内が獄にくだり、または、農村への人返し政策が行われや消費風俗が禁止され、しかも飢饉が繰り返され、農村が荒廃する中で、失われたものがたくさん、たくさんあるのではないか。
朱子学の国学化や水戸学派の復古主義やの、日本封建制の重苦しさも十分にうかがうことができるのではないか。

あるいは、今日実際には京料理から、洋食中華、エスニックまで多様な「おせち」が食べられていながら、資料類には公式的な江戸期おせちが残るように、当時の公約数的な一般的なおせちメニューだけがあがっているのであろうか。

または、創業者家康が、商業資本の支援をうけて、第一人者になりながら、支配体制は徹底した農本主義にのっとって、商業の発達を抑えて先祖がえりしたように、時代も何ほどか後退したであろうか…。

おせちの古代史的近世史的註 その1最初のおせち

2008年01月07日

おせちの淵源は宮中の節供(せちく)料理であり、
江戸後期、豊かになった庶民が、節供の名を借りて、
当時のご馳走を盛ったものと思う。

天皇家の節供料理は、
中国より伝来した、1月1日、3月3日、5月5日などの節句を
祝い、クニの祭祀の主宰者として米の豊作を神に願うものであり、
江戸後期に始まる今日のおせちとは明白に異なる。


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■最初のおせち―豊饒の万能食「米」をめぐる神々とのコミュニケーションツール

米と鉄の古代社会成立

多分卑弥呼の時代の直後、
西暦300年代に鉄器による米の生産性と武器の殺傷能力の飛躍的向上があって、
西日本が社会として一つになってきた。
米は爆発的な人口育成能力を持つ豊かな食べ物であり、
ほぼずべての栄養を満たす「万能食」でもあった。

また生産力の向上は、格差を生み、また更なる富への欲求を生み、漢書や魏史にあるように、争乱の時代、すなわち拡張のための征服運動をもたらしたであろう。

※鉄は、豊かさと悲惨とを同時にもたらす
まさに両刃の剣、そのものであった。
血を流しながら生きねばならぬ、人間の宿命、のようだ。
鉄器が充満する社会は、否応なく、人間同士を戦わせ、
個人に生きる意志を、問いかけたであろう。
つまり「(どうしようもなくなったら)他者を殺してでも自分は生きるのか…」というように。


鉄をめぐる出雲神話

そのころに、九州から大和へと侵攻してきて、支配的地位を確立した複数の豪族、すなわち大和勢力は、自前の製鉄能力を持たなかった。
彼らは、鉄を朝鮮や南中国からの供給に頼り、
また朝鮮伝来の製鉄技術を持ち「独自の経済文化圏を持つ出雲勢力からの供給に頼っていた。
鉄を握らぬ限り出雲勢力の風下にたつほかない立場なのだ。

そしておそらく400年代前半、
騎馬民族文化をも吸収して力を蓄え、自信を持った大和勢力は、
出雲の「まつろわぬ民」オオクニヌシとの最終決戦におよび、
ついには征服し、鉄をめぐる支配権の奪取に成功したであろう。
そして悲劇の被征服者の怨念鎮め、悪霊鎮めのため神として祭り、鎮護者として、
巨大な、巨大な、高さ52メートルもの出雲大社を置いた、であろう。

※「まつろわぬ民」とは後代、蝦夷(エミシ)をさしてそう呼んだ言葉であるが、たぶんに創造的・想像的な神話解釈の中で、大和勢力の敵、という意味で使った。

辺境日本の宿命―対外開明派としての天皇家の権力奪取

その後、大和豪族の一つであった、天皇家は、朝鮮や満州系の移民勢力と親しみ、仏教や律令制など外国文明を受け入れる開明派としてしだいに力を持った、であろう。
この外国勢力や移民勢力、外国文化、文明に対する柔軟な姿勢の天皇家が最終的に権力闘争に勝ち、支配者となったということは、この辺境のシマグニの文明的立場が強いる必然、であったろう。
この島国が文明的な後進地域であり、先進地域の文明を享受するべき必然があったということであり、民族的には単一民族などではなく南方から北方騎馬民族までの多民族融合国家であったこと、あるべきであったこと(辺境の宿命)、の明白な証明であろう。

そして聖徳太子〜中大兄皇子の2代に渡る
(正しくは連続する2代ではなく、2つの時代または2世代というほどの意味)
権力闘争とクーデターで独裁的権力を確立したことは、
鉄器による農業生産革命がもたらした、
米を中核とする農耕専制社会(アジア的専制)の確立の
最終段階の実行担当者となることで、
王朝の創始者の資格は十分にあった、であろう。

中国で春秋戦国を経て秦が農耕文明エリア(中原)を統一する時代に、意味としては相似的に対応してもいよう。

米の確保を保証する神々の力を呼ぶもの

独裁者、第一人者となった天皇家は、支配権力の永続を願って、
社会に「国家」(幻想としての国家・収奪システムとしての国家)の衣を着せて、
社会システムの固定化を図ったであろう。
それが律令制(氏姓から官位・冠位による豪族への支配権の明示)であり、
公地公民(生産手段としての人と土地と鉄器の支配権の明示)である。
それら権力機構、収奪システムを稼動させるには、
鉄の力とともに、
米の生産を保証する神々の力が必要であっただろう。
雨を降らせ、日を照らし、する農耕神=田の神、の力である。
それが社稷の祭祀(共食共同体としてのクニ=農村共同体と、
天皇家の二重の祭祀者としての自身を明示)であり、
農耕生活の祭祀である節句であったろう。
節句には、社会の第一人者として、
というより田の神に仕える唯一の神官として
天皇家のみが、
田の神に神饌をささげて、豊饒を祈る。

天皇家のユニークなことは、権力者であると同時に、
いや、それ以上に祭祀者として振る舞い、
古代農耕社会の神との通路を一手に握り、
以降1000年以上に及ぶ米中心社会の祭祀者としての地位を確立すること
であった。

 ※このあたり、神との通信をキリスト教が一手に握りながら、
 王権神授説までで収まったヨーロッパとは大分状況を異にする。
 ヨーロッパが大陸でありいくつものクニに分かれていたこと、
 先進文明地であったためにすでに複数の生活手段が確立し
 現世の王権が強かったこと、
 王権とは別の「天」(これは中国か)や「公」が確立していたこと…
 など思ってみる、
 が、視力の弱いわたしには、遠すぎるかも知れない。
 あきらめて、近いところへ帰ろう。

田の神と独占的に交通し、その力を呼び出す
不可欠のコミュニケーションツールとして、
天皇家の節供料理はここに始まることになった、のだ。

田の神を呼び返すための供物(コミュニケーションツール)としてのおせち―餅と酒の豊饒

節供料理は、
田の神との交感のための、古代社会的コミュニケーションツールであった。
新年の初めの1月1日は、
山へ帰った田の神を農耕地へ呼び戻し、
今年の豊穣を祈願するために神饌=餅(とお神酒)をささげる日であり、
農耕社会の祭祀(政治)の主宰者として、最も重要な仕事であったろう。

餅は米の中でも特別な、
もち米を臼と杵で搗き上げるもっとも重厚にして、
うまみと滋養を濃縮した美味なるものであり、
酒は、米を最も贅沢に使って神仙の世界へ誘う魔法のエキスである。
餅と酒とは、古代社会が新たに獲得した豊饒の象徴であり、
自然をつかさどる神の恵みであった。
神への感謝を表明し、交感し、次の収穫に協力してもらうに
欠くべからざるものであったろう。

かくて節供料理は、古代農耕社会の成立とともに始まる、
米の収穫確保のための、当時としては現実的な政治、であった。

  ※       ※       ※

「外来」の伝統のはじめ

また天智(中大兄皇子)から代替わりした天武(大海人皇子)は、
天智よりもさらに開明派であり、朝鮮=百済連合派であり、
おそらくは騎馬系渡来人とその武力の協力で権力を奪取したであろう。

しかし兄殺しの汚名は怨霊の恐怖をもたらし、怨霊しずめの必要があった。
またすでに中国への関心が高く、禅譲思想が広く受け入れられていたからこそ、
王権の正当を主張することが必要であった。
中国到来の文字や、歴史書の意識があったからこそ、
初めて歴史書や魂鎮めの書や(日本書紀や古事記)を編纂して自身の正当化を図ったであろう。

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※想像の幅を広げて言えば、大海人皇子は、天智と兄弟でなく、皇太子指名を受けていたのでなく、土着系日本人でさえなく、北方から来た騎馬系渡来人であったかも知れず、しかもそれゆえ額田女王をめぐる三角関係が「創造」され、「兄弟」神話が創造され、被害者としての立場を創造し、王権奪取の正当性を作り上げる必要があったのかも知れない。
という話は、当時のコトダマ的世界観、から想像するに、歴史的な真実を言い当ててしまっているかもしれない。想像の翼を広げて、の話。
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アジア的専制社会の文明装置の仕上げとしての文治の時代である。
中国では秦に変わった漢王朝にも相当していようか。
食料が確保できると、人々はこの安寧の持続を願い、文字を使い、万民にわかりやすい倫理を説き、自身の正当化のために歴史を作った。
ただ、中国には儒教による禅譲の思想があり、後代の王朝史家が前代の歴史を書いたが、この島国にはそれが定着しなかった。ローマの「市民」を作り出す公もなかった。またハードだけでなくソフトにおいても仏教や儒教や律令制など外来の文物を借りて、我が物としようとした。天をいただく思想、公を作り出す思想もなく、施しを受ける難民のような思いで、いた、であろうか。

わがクニには、しかし、難民ではない、自立した地方と庶民の風土や生活を大事に採録する文化(風土記)と自立した庶民のウタを採録し称揚する文化(万葉集)があって、大いに誇りうるように思う。
暗黙の地方風土解放戦線や自立的諸個人のウタ解放戦線が結成されて、疎外された地方や個人のリテラシーの尊厳を謳っていたのだ、な。
このシマグニ、では。

これ以降、基本的には、このシマグニでは、地方風土や個人のリテラシーではなく、
中央が統制する外来思想をもって文明の主調として、文化を営み続けてきた。
われわれは、未だに、自前の経済思想も社会思想も持たない。

    ※      ※       ※

天皇家は鉄器の生産を支配することにより、300年代に新たに確立された米の農耕社会の支配権を奪取し、中国的律令制を持ってその権力を維持しようと努めた。
その、現実政治の中心が米の確保であり、そのための田の神との交感であり、
節供料理も大事な政治活動であった。

食料の安定確保の道筋をつけることはかくも社会を変えた。
鉄器が米の確保を可能にし、米をめぐる人のあり方を根本的に変え、古代社会を成立させた。
以降、米が社会の中核である時代は、わが国では江戸時代をへて明治まで続き、米が主食である食文化は1970年〜1993年ころまで続いた。

江戸期には、富の源泉が画期的に変革され、おせち、も生まれ変わることに、なる。

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