悲情のカンテから身体芸術へ〜フラメンコ覚書

2007年12月15日

フラメンコはもともとヒターノ(ジプシー)と呼ばれる、
インドに始まる流浪の民の民族音楽であり、民族舞踊だった。
ヒターノはユダヤ人とともに迫害され、殺戮された歴史を持つが、
ユダヤ人のようには、
結束せず、自己主張せず、故国へ帰ろうともしない。
歴史的にもあまり知られていない。
黒い瞳と黒い髪を持っている。

1980年代、ヒターノへの関心とバルセロナモデルニスモへの関心と人民戦線への関心でスペインへ行き、最初にグラナダを訪れた。

(多分、サントリー社のガウデイのCFはすでに流れていた。その後アンダルシアやバレンシアのひまわり畑や、コスタデルソルへの老後移住計画などが話題になった)

アルハンブラで靴磨きをする少年に財布を掠め取られそうになり、
仲良くなったりした。
赤いアルハンブラから見える白い岩山に洞窟が点々と穿ってあって、
それがヒターノ居住区のアルバイシンの丘であった。
市街地からも、職業からも追われ、洞窟が住居だった。

わたしは、その洞窟でフラメンコを見せてもらった。父親がカンテ(歌)とギターを担当して、その他の家族がみな踊った。
すでに相当観光化はしていたが、
陽気なもの、哀調に満ちたもの、複雑で多様な曲調(コンバス)を
時に激しく、時に淡々と踊るバイラオーラ(女の踊り手)たちはしかし、
けして笑顔というものを見せない。
(笑顔を見せないだけなら、様式化された民族舞踊には少なくないが)
むしろ、眉間にしわを寄せてせつなげに悲しげに、感情の強い踊りを踊る。こんな民族舞踊がほかにあるだろうか。

観客にこびない、自分(たち)の感情を感じて確証する踊りなのだ。合わせる相手があるとすれば、それはカンテオール(男の歌い手)でありバイラオーラ(女の踊り手)どうしであり、民族の血と歴史であるほかない。

(ここでは、共同体が固体の自己意識(個我)を包み込んでいるように見える。個は共同と美しく添い寝している、か)

民族の血と歴史とは、放浪であり、分散と孤立であり、迫害と虐待を堪えることであり、仲間同士の離反であり、たくさんの愛憎と流血と無残な死であり、それらを際限もなく反復しつつ、それでもなお生きるという…人類史の総過程にその発生からすでに深く深く底なしに深く刻まれた不条理、そのもののもっとも不条理な、それ、ではないのか。

カンテは、わが国に伝わる民謡のかなりのものがそうであるように、黙々と生きる市井の民が、
何者かにささげる祝祭歌であり労働歌であり、民族の感情を歌い、慰める悲傷歌であり、するに違いない。
生活は悲傷に満ちていた、であろう。

踊り終わると一家は、そそくさと場を片付け始めた。
楽しげではないが、悲しげでも、ない。
父親とガイドは一仕事終えて、何事か話しながら、煙草をふかしている。

複雑な感動で外へ出ると、アルバイシンの白い岩肌に痛いほど射していた陽は落ち、空は累代にも及ぶかと思われる、恐ろしいような血の色に染め上げられていた。

ばらをくわえるどころじゃないな。(あれはまったくの創作だ)
あれは血の色、なんだな。
たっぷりと絶望と惨劇を吸ってきたおぞましい血だ。
血が空をめぐり、体をめぐり、累代をめぐり、吹雪のようにからだにもこころにも吹きつのっている。
わたし、にも。(身は疲れ、心はうつろ、それでも、なお、生きるというのか)というように。

頭を抱えて、佇むしかなかった。

※このあとグラナダとセビリヤとマドリッドのタブラオでやはりフラメンコを見た。なお、濃厚に民族のものであった。
その後数年して、1929年の万博のときに作られた、バルセロナのミース・ファン・デル・ローエのモダニズム建築の記念碑的作品《バルセロナ・パビリオン》のすぐそばでもフラメンコをみた。やはり、濃厚に民族のものであった。「近代」はフラメンコと鋭い対比を見せて、民族の行方を指し示してもいたろうか。

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◆フラメンコの本質的な特徴は、カンテ(歌)にこめられた深い心情だ。ケヒーオ(悲情のうめき声)は魂のそこから、ヒターノの民族的悲情を歌い上げ、存在の不条理をかきたてる、ように聞こえる。
それは、日本の各地に残る民謡の悲傷歌の発声に似ている。
日本の民謡については、十分な記録や研究があるとは思えない。変貌も激しく、研究もあまりされていないように思われるが、一方で陽気であり、一方で腹のそこに響くような悲傷歌であるだろう。

◆日本は、たぶんスペインについでフラメンコが盛んな土地である。
そういえば発音も共通性が高い。感情表現が豊かでなく、手の動き(ブラセオ)で感情を表現したり、マイナーキーの楽曲であったり、悲歌(エレジー)を好む心情も肖ていよう。

(われわれもまた、「迫害」をしのぶだけの、自己主張のできない民の末裔である、のか)

日本人のバイラオール、バイラオーラも多く、スペインで活動する人も少なくない。国内では小島章司と小松原庸子によって広められた、か。わたしは小島章司は見ることができた。

◆フラメンコはほぼ二人の男によって、世界的なショーまたは舞台芸術に仕上げられた。その二人はヒターノにとってのパイジャ(よそ者)である、バイラオール(踊り手)、アントニオ・ガデスとギタリスト、パコ・デ・ルシアである。
スペインで見ることのできなかったアントニオ・ガデスが来たときは見に行った。それは凄い迫力の「舞踏」であって、民族の思いは消えたわけではなかろうが、身体というものを通じて、さらに別のものにまさしく昇華していた。忘れられない。
今日、フラメンコは、異風の民族の血をそのまま生かした稀な、語り(カンテ)と音楽(ギター)と踊り(バイラ=身体芸術)の複合芸術である。

フラメンコは世界芸術になったが、能は民族的な伝承芸能、である、かな。

◆身体芸術 わたしは専門家でもなんでもないが、その後、身体というものを極める芸術が広まることになったように思う。
現代舞踊(あるいは前衛派は「舞踏」と呼び慣らしているが)はピナ・バウシェを生み、フラメンコのマリア・パヘスを生んだ。

ピナ・バウシェはやはり、そのころ東京で見た。身体というものが希望に通じる力のあるものだということを教えられたように思う。が、全体の水準があまりに高く、とても届かないような気がして、ひどく打ちのめされた。
マリア・バヘスは見たことがない。「笑い」というものを試みているそうだ。
わたしも、笑うこと、を意識して相当に練習したことがある。いまだに、うまくできないが…。

日本では身体芸術への感度が高いように思うが、唐十郎に始まり麿赤児、寺山修司、さらには小樽の海猫屋の増山誠らが現れた。今日では「パフォーマンス」と言ったりする。書や音楽やエンタテイメントも包摂し、また分離し、新しい総合芸術の舞台へと、模索が続いているように思われる。

(2006年11月23日 記)
posted by foody at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | フラメンコ

凄愴な緋色の前奏

2007年12月15日

CIMG1991.JPG
何十年ぶりかでフラメンコを見ることにした。

夕刻、電車に乗って、フラメンコのこと、ヒターノのこと、
モデルニスモのことなどとりとめもなく思い出しつつ揺られていると、
急に目の前が真っ赤になった。

大気が澄んで、まるい空から血を流したような緋色の夕焼けが
地上へ滴り落ちる光景を見た。
緋色は翳となった地上を這い、
こころとからだの隙間にも流れ込んだ。
暮れ残る西の空を一面に染める夕焼けは凄愴で、
思わず振り返てみるほどに、わたしたちに孤独を感じさせる。
(夕陽があまりに美しかったので、
海へ海へと泳ぎだした詩人もいたっけ)


魯迅が初めて日本へ来たとき、
日暮里という地名を見て、
ハラハラと涙した、という話を突然思い出した。
魯迅の中の夕陽もさぞ凄愴なものであったろう。
(魯迅はその後、何事かに絶望して帰国し、
10年にわたって失語の人のように言葉を発しなかった)

アルバイシンの丘の、ヒターノ居住区で見る
夕焼けもこんな風にもの凄く、
フラメンコのひとつの核心に触れたような気がしたものだった。

ちょっと凄い前奏、というところ、だろうか。
多摩川を渡る鉄橋の上で、あわてて撮った。
惜しくて、次の駅で降りてみた。
木の翳で、地平は見えなかった。
なんだかほっとして、次の電車に乗った。

(2006年11月22日 記)
posted by foody at 18:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | フラメンコ

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