2・26事件と昭和経済史への註2 昭和初年代

2008年04月16日

 「大学は出たけれど…」不況下の昭和初年代―経済社会的背景
一九一一年(明治四四年)悲願の関税自主権を回復し、「完全独立」を勝ち取った近代日本はその後順調に発展し、第一次世界大戦期には好況に沸き、一九二〇年(大正十年)には繊維産業を中心に世界七位の輸出高を持つ「アジアの工場」といわれるまでになった。
このころには「大正デモクラシー」といわれる民主主義思想や国際連盟に象徴される平和思想、社会主義・共産主義思想も広がり、労働運動や農民運動も組織されてゆく。政府はこうした自由化・民主化思想には一九二五年(大正十四年)普通選挙法と同時に取締りのための治安維持法を制定、時代は自由と統制の間を激しく動いてゆく。
同時に日露戦勝以降、日本軍の不敗神話や、神道思想の影響を受けて軍隊を神聖視する「皇軍」=統帥権(天皇が内閣を経ず直接陸海軍を統帥する権能を持つ)の思想も醸成されて国家主義思想に繋がってゆく。
官僚や軍部には、巨大化した財閥の横暴や、軍縮を主導した政界・官界・軍内の欧米協調派への反感も強く、経済や社会を国が(具体的には官僚と軍部が)統制しソ連的な経済建設をすすめるべきという国家社会主義思想(統制派)もひろがって、満州の開発・経営は軍部と国策会社が独占することとなった。

昭和になると、一九二七年(昭和二年)の金融恐慌や一九二九年(昭和4年)の世界恐慌の影響で深刻なデフレ不況(輸出が減ってモノがあまり物価が極端に低下した)に見舞われ、多くの中小企業が倒産、就職難と失業の時代がくる。「大学はでたけれど」(小津安次郎監督)という映画がヒットして、題名が流行語になった。しかし、まだまだ生活には明るさがあり、映画やカフェが絶頂でもあった。

  『昭和八年は満州事変直後で、軍需景気でネオンは輝いて、ダンスホール、カフェ、バー、キャバレーが満員なことこんにちのようだった』――山本夏彦『「室内」40年』文春文庫

経済全体としては満州事変の軍需景気や積極的かつ自由経済派の高橋是清のバランスの取れた財政の成功により、一九三二年(昭和七年)以降大財閥を中心として回復傾向に転じた。二・二六事件の起きた一九三六年(昭和十一年)には実質的にピークに達したと推定される。(戦前最高の実質的GNP一二六億ドルを達成したとする見解もある)※一九三六年の政府一般会計支出は二十二億八千万円、アメリカの財政支出額は八四億ドルである(一ドル=約三円五十銭)。

一方農村では世界恐慌の影響で米価が急落したのに加えて、一九三一年(昭和6年)の大不作が決定的な打撃となった。農家の収入は最盛時の大正十四年の三分の一になリ、さらに翌年以降も不作が続いてしまう。そのため、娘の身売りなどが続出する「壊滅状態」が続き、一九三五年(昭和十年)には小作争議の発生件数が史上最高となった。
社会の不公平感が募る中、五・一五事件で政党内閣は終焉し、政府は、以降急速に国家主義化(統制派化)し、満州事変で国際的な孤立を深め、テロが頻発した。世情騒然となる中、運命の昭和十一年を迎える。



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