2・26事件と昭和経済史への註3 皇道派と統制派と革新官僚

2008年04月16日

軍部に育つ昭和維新思想―背景としての軍部の派閥抗争と思想

桜会

不況と農村の危機が続く中で軍部には、軍縮による昇進遅れに対する不満や、多数を占める農村出身者の共産主義化への危機感が根強くあり、一方、純粋に農村や労働者の窮状を救うべきと考えるものも多く国家改革思想が芽生える。大川周明や北一輝らの国家社会主義の影響も広まる中一九三〇年(昭和五年)には、陸軍内に「国家改造を以って終局の目的となしこれがため要すれば武力を行使するを辞せず」とする急進的国家主義秘密組織、桜会が結成された。
翌年三月には宇垣一成陸相を首班とする軍部独裁政権樹立クーデター計画が明るみに出た(三月事件)が、桜会は軍幹部にまで会員を獲得しており処分は軽微なものであった。十月には満州事変の軍主導展開を狙って、荒木貞夫陸軍教育総監本部長を首班とする計画(十月事件)が明るみに出る。
桜会は軍主導の国家改造を目指す急進的青年将校運動の底流となった。十月事件の後は事実上解散するが、永田鉄山や東条英機は陸軍主流派たる統制派を形成し、青年将校は純粋な気質の心情的急進派として皇道派を形成してゆく。

統制派と皇道派

統制派は陸軍内の開明派であり近代化派である。また岸信介・星野直樹らの満州国経験者の「革新派」と呼ばれた統制経済派官僚と通じていた。英米を仮想敵とし、ソ連との不可侵条約締結を唱えた。中心となった永田鉄山は第一次大戦で日本軍の軍備の遅れを痛感し、軍主導で(ナチスドイツのように)社会を統制して軍備を近代化し、産業を統制して「高度国防国家」をつくることを目指した。桜会にも参加し中心メンバーの一人といわれる。軍務局長として陸軍の中枢にいた一九三五年(昭和十年)陸軍省の自室で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。その後は東条英機がトップとして主導することになる。
皇道派は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将をシンボルとしていただく青年将校グループである。荒木は反ソ反共を唱え対ソ決戦を主張し、そのために「君側の奸」を打ち「天皇親政」の実現を唱えた。一九三一年(昭和六年)荒木は陸相に就任すると、自派の人材を登用し自宅を青年将校たちに開放して多くの共鳴者を集めた。しかし、その思想には現実的な国家運営や経済運営のプランはなかった。集まった青年将校らは心情の純粋さゆえに直情的な行動が多く、政府財界からは危険視されていた。
※満州事変の張本人といわれた石原莞爾は、皇道派でも統制派でもなかったが、政策的には「革新派官僚」とごく近く、「計画経済」を主導した。




この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。