共同幻想論6 共同幻想論の発想〜ドイツイデオロギーの「国家の本質」

2009年03月20日

マルクスから、直接に幻想論の示唆があるのは、『ドイツイデオロギー』の以下のような部分である。

  とにかく分業と私有は同じ表現であり――同じことが前者では活動
  についていいあらわらされ、後者では活動の生産物についていいあ
  らわされているのである。――さらに分業と同時に、、個々の個人
  または個々の家族の利害と、互いに交通するすべての共同利害との
  矛盾が与えられる。しかもこの共同利害はたんに観念の中に『一般
  的なもの』(Allgemeines)として存在するのではなく、分業が行
  われている諸個人のあいだの相互的な関係としてまず現実の中に存
  在する。
    ――岩波文庫「ドイツイデオロギー」『フォイエルバッハ』P43

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「分業」とか。「交通」とか「共同」とか「一般」とかのマルクス用語の理解は注意を要する。「普遍的」がたんなる共通性でなく「普遍化されたあるべきあり方=当為」であるように、だ。
ここでは、思考のメモの段階で、叙述は平易でわかりやすい。
「分業」は深遠な用語だが、ここではたんなる仕事の分割、と考えてよい。「分業」することによって、個人の利益は分断され、共同の利害と「矛盾」するようになる。これは私有財産制の発生と同じことだというのだ。

また個人と家族は、分割されておらず、個人の利害と家族の利害は一致している。これは大切なことである。(吉本はこれを無視して、「家族」というものを「性的な対幻想」に限定した。そのため、個人幻想と対幻想の関係はただただ性的な契機だけであり、個人はいきなり性的な存在として共同体(=国家)の成立によって疎外される当事者として現れるしかない。いわば「片肺の対幻想」をもって共同幻想に対峙した)

吉本が観念の領域で「共同幻想」と「個人幻想」が「逆立」する、というのは、実態的はこの分業に根ざしている。そして、その媒介項に「対幻想」を持ってきたのは、なぜだったのか。それは、実態的な自然的な過程を反映していない、ということであろうか。

※そしてマルクスによれば「分業」の確立は精神(=幻想)と肉体の分業、すなわち、「僧侶」が誕生したときだ、といっている。

続いて次のように言う。

  そして分業は、ただちにつぎのことの最初の実例をわれわれに提供
  する。すなわち、人間が自然成長的な社会のうちに存する限り、し
  たがって特殊利益と、共同利害との分裂が存するかぎり、したがっ
  てまた、活動が自由意志的でなく自然成長的に分割されいる限り、
  人間自身の行為は彼にとってよそよそしい対立的な力となり、そし
  て彼がこれを支配するのでなく、これが彼を抑圧するということの
  実例である。すなわち労働が分配されはじめるやいなや、各人は専
  属の活動範囲をもち、これはかれにおしつけられて、彼はこれから
  抜け出すことができない。かれは猟師、漁夫か牧人か批判的批判家
  かであり、そしてもしかれが生活の手段を失うまいとすれば、どこ
  までも「それ」でなければならない――これにたいして共産主義社
  会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門
  においても修行を積むことができ、社会が全般の生産を規制する。
  そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく、気の向くままに今日は
  これをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、
  夕べには家畜を飼い、食後には批判をすることができるようにな
  り、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。
    ――岩波文庫「ドイツイデオロギー」『フォイエルバッハ』P43〜44

微笑ましいマルクスの「共産主義」のイメージだ。このイメージが良いという意味で引用したのではない。あまりの素朴さに逆に感動したので、引用したのだ。もちろん、わたしは、こんな「共産主義」を望んでいないし、マルクスもそうだろう。ただ「このようにしか語れないこと」を、語ろうとしているのだ。ことは、労働形態の問題でなく、人間的自由の問題、である。したがってまた、これをもって「共産主義=計画経済」と考えるのはばかげたことである。
横道にそれてしまったが、しかし、こんな風に書いてみて考えるマルクスは、いいやつではないか!!と書いておきたい。
もちろんここでも「自然成長性(生産が強いる必然的過程であって、自然成長的な分業は私有と不平等な分配を意味する)」とか「社会(生産が強いる必然的な人と人との関係=市民社会)」とか「批判(=思考・考察・思想・精神)」とかの用語の理解には注意を要する。

本論に戻ろう。

  そしてまさに、特殊利害(個人の利益)と共同利害とのこの矛盾に
  基づいて、共同利害は、個別および全体の現実的利害から切り離さ
  れて国家として一つの独立な姿を取る。そして
  それはまた幻想的な共同性として、である。
    ――同前 P44

個人の現実的な利害から切り離された「共同利害」がひとびとに一つの「人格」のように現れること、こそは国家であり、それは人びとの共通な観念の中で造られた幻想的な共同性、である。といえばよいか。
吉本共同幻想論の国家観の成り立ちはまさにここにある。

引き続き、国家が、実在的な土台としているのは、「あらゆる家族的集合体、および種族的集合体の中に存する紐帯、たとえば血肉、言語、比較的に大規模な分業」とその時代の支配的階級であると述べ、したがって国家内の政治的社会的な闘争は階級間の闘争の幻想的形態であるといっている。

そして、ある階級がその階級の利害を「一般的利害」であるとしてかかげるためには、「やむをえ」ず、まず政治権力を奪取しなければならぬ、とも。
(ここから政治思想としての「マルクス主義」が始まる。が、私は、わたしの課題に戻ろう)

そして、個人に対する国家の本質をこのように語る。

  諸個人はただ彼らの特殊利害(=特殊化された普遍=個人としての利
  害)――かれらにとってかれらの共同利害と合致しない利益(=個
  人の利害)だけを求める。そして一般的なもの(普遍的なもの)は
  共同性の幻想的な形態である――それゆえにこそ、このもの(=国
  家)はかれらにとって『よそよそしい』(fremd)そしてかれらか
  ら『独立な』(unabhängig)利害、すなわちそれ自身ふたたび特殊
  なそして独自な『一般』利害(Allgemein Interesse)としておし
  だされる。あるいはまたかれらは、民主制のばあいのように、この
  ような決裂のままで互いにまみえなければならない。したがって当
  然また他方では、共同利害および幻想上の共同利害にむかってたえ
  ず現実的に対立するところの彼らの特殊利害の実践的な闘争は、国
  家としての幻想的な『一般』利害による実践的な干渉と制御を必要
  なものとする(引き出すことになる)。社会的な力は、すなわち分
  業のために制約された協働(種々な個人の)によって発生するとこ
  ろの倍化された生産力は、この協働そのものが自由意志的ではな
  く、自然成長的であるためこれら個人にはかれ
  ら自身の結合された力としては現れずに、かれらの外に立つよそよ
  そしい力として現れる。
    ――同前 P45

ここに国家は幻想であり、個人と矛盾対立するものであることが宣せられる。しかし、マルクスはこのあと、国家や法や哲学にかかずり合うのをやめ、「市民社会」の本質たる「資本」の解明に向かうのである。

『ドイツイデオロギー』のこのあたりの部分は、マルクスの叙述がきわめて平易でわかりやすく、翻訳によって晦渋さが加わってもなお、ある種の明晰な精神の透明性を感じられる。用語が完全にかれのものなり、思考に確信がふかまり、その手ごたえに精神が高揚しながら、熟した思考が自然に適切な用語を選択し、密集した密度の高い言語水準が獲得されている。
思考がある大きな地平をきり開いたときのたくさんの情熱と冷静が詰め込まれている。「詩的」である、といっても良い。

1981年角川文庫版『改訂新版共同幻想論』の序文で、吉本隆明は次のように書いている。
  
  まずわたしが驚いたのは、人間は社会の中に社会を作りながら実際
  の生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会の上の聳え
  ているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主
  義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国
  家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものというイメー
  ジで考えられてはいない。
  〜略〜
  ある時期このイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめる
  ほど衝撃を受けたのを覚えている。同時におなじ国家という言葉
  で、これほどまでに異質なイメージが描かれることにふかい関心を
  そそられた。

「国民の全体をすっぽり包んでいる袋」とは、東条英機―岸信介らの軍部・官僚の「統制派」による、国家が文化も芸術も経済も産業も(つまり市民社会を)国家の活動のために「総動員できる」という戦時体制のイメージであろうか。たしかに、戦争下でも「戦争は国家の仕事であり、国民はこれに対して否と言うことができる」、というアメリカやイギリスのイメージとは違っているように受け取れる。
(しかし、ここから「アジア的」一般を引き出すのは、ちょっと違うように感じられる。もっとも、『共同幻想論』では「アジア」ではなく、「日本」というクニを取り上げたから直接の非議の対象ではない。)

じぶんの生まれ育ち生活し、感受し思考する「場」であるニホンというクニを取り上げて、共同幻想の成り立ちを理論的にあきらかにすること。というより構築すること。
それは敗戦によって痛手を受けた吉本が内心で問い続ける、以下の課題にこたえる、客観的(普遍的)な理論構築でなければならなかった。

1 資本主義も十分に発展していたはずの昭和期日本国家は、なぜやすやすと「超国家主義」と「統制派」の支配する非理性的な、「万世一系の天皇」が統治する偏執狂的なクニになったのか。
2 これに対して、なぜ知識人も庶民も「抵抗」というより「賛美」していたのか。また戦時中に戦争を賛美していた知識人や庶民はなぜやすやすと、戦後に民主主義者に転向したのか。

『転向論』ではいわば転向者にそくして(いわば形相的還元として)、転向のプロセスを取り上げ、分析した。
次はこうした事態を生み出した根本要因である「この社会」のがわの本質的な原理のなかから吉本の主題にそくして(いわば超越論的還元として)、「個人を蔽うようなイメージの「お上」とか共同幻想」の成り立ちを解明し、理論化(普遍化)することにより、共同幻想のいびつさを解体することが目指された、であろう。

動機付けは整った。
ここから、共同幻想論の構想の全体像まではあとわずかだ。



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