共同幻想論4 それまでの吉本隆明―詩と情況と原理その1

2009年03月15日

吉本隆明の作品はすべて詩である、という批判者の揚言は、正しい、と思う。正しいが、だからといって評価が下がるわけでも、作品として出来が悪いわけでもない。
「詩的」表現は論理性も心情も倫理も同時的に表現できる、ということを吉本本人がその詩作品で示しているからである。

詩的吉本隆明 倫理化された心情の論理―詩的絶対性と情況

「秩序」への反逆の心情
敗戦で挫折した「軍国少年」であった吉本隆明は、国が敗れても大半はスローガンどおりには「玉砕」せずに(「玉砕」してしまう人もいるのに)、連綿と続く生活を「生活」する光景(市民社会)を目の当りにして、日本軍国主義イデオロギーや、人間や社会や国の現実に激しい不信を抱いた。つまり絶望した。
それは精神的な孤立であり、現実的な生活苦でもあり、して吉本に現れた。そして、社会への通路を絶たれた、とつよく強く感じていた、だろう。現実への通路を絶たれたと感じ、傷ついた精神は迷路のような内面に閉じこもり、モノローグのような対話に、すなわち詩によって自己を再建しようとした。

1950年「詩の一行もかけない時期」が半年以上続いた。つまり、吉本の内心の言葉、内面の自己は、現実との通路を求める時期にあり、そしてその通路は容易に見つからず、停滞していた。言い換えれば「アドレッサンス」の味を十分にあじわっていた。
現実は吉本を拒絶する「秩序」として現れていたであろう。

  <愛するものすべては眠ってしまひ 憎しみはいつまでも覚醒して
  ゐた>わたしはただその覚醒に形態を与へようと願った

  ひとびとはきっと理解するだろう わたしが言ふべくして秘めてき
  た沢山の言葉がいまは沈黙の建築をつくりあげてゐるのを

  差しこんでくる光束はわたしの沈黙の計数を量るやうに思はれた
  しかも決してわたし自らにも狃れようとしないその沈黙の集積を時
  は果してどうするか 不明がわたし自らのすべてをとざしてゐた

  わたしはただわたしの形態がまことに抽象されて もはやひとびと
  の倫理のむかふ側へ影をおとすとき 自らの条件が充たされたと感  ずるのであった
    ――「固有時との対話」

反逆の倫理の現実化
「現実への通路」を開いたものは、もちろん詩であり、その詩は、恐ろしいほどの「抽象力」(マルクスの「抽象力」!)により自意識を抽象化して、ひとびと(=「大衆の原像」に通じるか)の「倫理のむかう側」に着地するものであった。
つまり、全世界の秩序を転倒するべきだという反逆的な心情に現実の根拠=論理を与える作業であった。それは「世界を凍らせるだろうという妄想」を貫通して、そのためにには「廃人」であるほかない、という、全世界に否といわざるを得ない反逆的な感情から、発するものである。
1952年「固有時との対話」で孤独と絶望のなかで、不思議に自律的で強靭な(ふてぶてしくさえある)論理を駆使し、1953年「転移のための十篇」で、激しい瞋(いか)りと熱情で「社会へと相渉る」(論理化された)叙情をうたった。

  ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという
  妄想によって ぼくは廃人であるそうだ
    ――「転移のための十篇」『廃人の歌』

すでに仮名使いも改まり、視点は「現実から」の視点に「転移」して、「ぼく」を見ている。そして吉本の場合は特異にも、アドレッセンスの「心情」を無限の「真実」として全肯定し、そのまま深掘りして、高度に抽象化された「反逆の倫理」にしたて、論理化するという荒業であった、と思う。
どうあろうと(「廃人」であるといわれようと)、内心の「秩序」への「反逆」の心情に含まれている論理だけを武器にかれは真実を口にし、「世界を凍らせる」のである。
ここに多くの共感を呼ぶ、「思想」と「文体」の「直接性」の理由がある、ともおもう。
  ※この「直接性」というものは、内面の心情をとことん凝縮し、追い
   詰めてついに「心情の絶対性」を「関係」性に転化させると言
   うものであって、一種のアクロバットといえば言えなくもないよ
   うに思われる。
   また、じぶんの動かしがたい心情を、社会的な(マルクス言うとこ
   ろの、である)「関係」にうつしかえるということで、この飛躍
   には人間の観念というものの恐ろしさ(マルクス言うところの
   「哲学者の神秘」)が潜んでいるようにも思われる。(たんなる
   傲慢、つまり「妄想」でしかないかもしれない、という危険が常
   につきまとうのであるが…。実際「内面の葛藤からどのように社
   会へ「相渉る」のか論理的に明快でない、というまっとうな「批
   判」は当時流布されたが、しかし、大方の支持を得ることができ
   なかったようんに思われた。わたしたちには「社会的現実」へと
   相渉った吉本の偉さ、だけが印象に残っていた。)
   また柄谷行人が「放棄」したところの内部の「形式化」を突き詰
   めて、突き詰めることによって無効にしてしまうことで外部へと
   歩みでる、という言説と通底するようにも思われる。吉本にある
   詩的直観が、柄谷には少し足りないのだ…というように。
   またマルクスの「自然哲学」、「人間は自然を非有機的身体とし
   て人間化し、そのために有機的自然として自然の一部であるほか
   ない」、という根源的な存在の逆説にも、にている…か。
   ―次の、課題である。

吉本は1961年7月号の「詩学」に「詩とはなにか」を発表し、この間の事情を誰よりも明快に、やさしく適切に、そして憎らしいほど美しく言い切っている。
   
  マルティン・ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩の本質』の中でつ
  ぎのようにいう。
     
     人間の現存在はその根底に於て「詩人的」である。ところで
    詩とは 我々の理解するところによれば神々並に事物の本質に
    建設的に名を付与することである。詩人として住むとは神々の
    現在のうちにたち事物の本質の近みによって迫られることであ
    る。現存在がその根底において「詩人的」であるとは、それは
    同時に現存在が建設せられたもの(根拠づけられたもの)とし
    てなんらのいさおし(※=手柄・名誉)ではなく賜物であるの
    謂である。
     詩は現存性に随伴するたんなる装飾ではなく、またその場限
    りの感激でも況やただの熱中でも娯楽でもない。詩は歴史を担
    う根拠でありそれ故にまた単なる文化現象とかましてや「文化
    精神」の単なる「表現」などではない。      

  現存在が詩人的であるとは、いさおしではなく賜物だ、という言葉
  や詩は歴史を担う根拠だという言葉はわたしの気に入る。これをや
  さしく翻訳すれば、現存する社会に、詩人として、いいかえれば言
  うべきほんとのことをもって生きるということは、本質的に言え
  ば、個々の個人の恣意でなく、人間の社会における存在の仕方の本
  質に由来するものだ、ということになる。これをわたしのかんがえ
  にひきよせて云いかえれば、私たちが現実の社会で、口に出せば全
  世界が凍ってしまうだろうほんとのことを持つ根拠は、人間の歴史
  とともに根深い理由をもつものだ、ということに帰する。
    ――「詩とはなにか」(思潮社「詩とはなにか 世界を凍らせ
      る言葉」P17

しかし美しく出来上がった説明は、事実の事実性を、つまり内心のおののきや、不安な耐え難い心情やの出自を、吉本が詩ですくい出そうとして苦闘したあのふたつない詩的絶対性を、言い換えればそれだけが存在の根拠であるところの突き詰めた反逆の心情をのおぞましい美を、覆い隠してしまっているように、見える。

P1070408.JPG
1954年「マチウ書試論」でそれらを、現実が強いる「相対性」の圧力に抗してけして相対化されることのない「関係の絶対性」の場に立つことが「反逆の倫理」につながる、と、世界への「不信」感を倫理化した吉本隆明は、「詩」(の絶対性)をすべてに拡大し適用する天性の詩人である。

  秩序にたいする反逆、それへの加担というものを倫理に結びつけ
  得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによっての
  み可能である。

  人間は狡猾に、秩序をぬって歩きながら、革命思想を信ずることも
  できるし、貧困と不合理な立法を守ることを強いられながら、革命
  思想を嫌悪することもできる。自由な思想は選択するからだ。しか
  し人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。

    (いずれも「マチウ書試論」)

ここに「詩的絶対性」と「情況」のひとは現実への通路をこじ開けた。現代詩史はまだ、吉本の詩的意義を評価する場や器を持たない。

“情況”の思想
吉本の情況(政治的な「世界」のこと)認識は、1958年の「転向論」が頂点でこれ以降、時代を、そう凝縮して見せることはなかった。また不可能で、あった、だろう。

1951年「前世代の詩人たち」で岡本潤、壺井繁治を激しく批判し、商業文学の世界に登場して「文学者の戦争責任論の口火を切った、とされる。まことに、吉本青年のアドレッサンスを孤立と絶望に追いやった1941〜50年頃の「秩序」への反撃の開始であった。
政治思想的には、真剣にマルクス主義の可能性に惹かれていたが、日本軍国主義イデオロギーに「うらぎられた」経験が、簡単には党派や支配的言辞に与さない独自の批評的視野を獲得していた、であろう。

1958年には「転向論」により、「情況的思想論」の核心にいたった。
日本社会には「高度な近代的要素」と「封建的な要素」が併在しているという「情況」認識を提示し、岡本潤ら「転向者」たちは、一度は日本社会の後進性に見切りをつけ、モダニズム(ロシアマルクス主義)に走るが、(年齢とともに=つまり生活感情として)日本社会に妥当性を見出し無残に屈服する「二段階転向」者であるとした。つまり、もともと日本的封建遺制から遁走し、流行を追った軽薄なおっちょこちょいだと言い切って切り捨てた。
また「非転向」を貫き、一種の「神格化」された英雄であった宮本顕治らを、はじめから、日本社会の現実を必要とせず(認識せず)、モダニズム(ロシアマルクス主義)に走り、空転しているもので、日本社会の現実と対決していないから非転向なだけだ、もともと「転向」していたのだ、とした。
宮本顕治は、「非転向の英雄」で、偶像だという当時の風潮に、真っ向から否を唱え、偶像の座から引き摺り下ろした力技であった。
また「転向」を心の弱さ、というような倫理の範疇から、思想の深さ、強さの論理性の問題というような、知の構造の問題に還元したであろう。
ロシアマルクス主義と日本前衛党に「擬制の前衛」として破滅を宣言し、ここから、新しい人、吉本隆明はは確立し、以後、1973年頃「情況」が死滅するまで、(つまり「政治革命」が世界を変える可能性が、絶えるまで…)思想情況(「情況」の思想)はまさしく吉本が主導するところとなった。情況の人吉本の真骨頂であろう。以降吉本は、偶像の人、とも、なったのだ。
吉本の情況(政治的な「世界」のこと)認識は、このときが頂点で、これ以降、進化も深化もしておらず「スターリニスト(ロシアマルクス主義者)」とか「ファシスト」以外のタームはついにでてこない。「超資本主義」といったあとも、その、具体的な政治思想は、ついに提出されていない。

※さすがに、動向は的確にとらえて、断片的にだが、「贈与」の思想、とか「アフリカ的段階」とかいった言葉はでてきているようだが、「情況」(政治運動としての実現の可能性)には届いていないように思われる。

     ※     ※     ※

だがここには、吉本の詐術が秘匿されているように思える。ロシアマルク主義にも日本前衛党にも破滅を宣言したとして、その後の展望はあるのか、という基本的な疑問に吉本は答えていない。あるいは意図的に「答えないことにした」のではないかとも思われる。
吉本の生活世界重視(マルクス自然哲学の現実的実現!)からいえば、戦前すでに相当程度に発展していた日本資本主義=統制派体制が朝鮮特需に乗って、大幅な回復を示し、庶民生活もゆとりを回復してきた1956年ころ(スターリン批判・フルシチョフ平和共存路線・朝鮮戦争・「もはや戦後ではない」宣言)には、すでに「暴力革命」は希望よりも「破壊」をもたらすものになっていたからだ。
1958年ころ「社会主義リアリズム論批判」や「転向論」を書きながら吉本の胸にはどのような思いが去来したであろうか。
すでに内心では「政治革命」の有効性には疑問符が打たれていただろう。それは社会主義リアリズム論の破産を言い切ることによって明らかだ。政治革命のの有効性を認めるなら、他の何ほどかを犠牲にしても政治革命を優先するべき思想が語られねばならない。
しかし現実には(情況的には)「封建遺制」の桎梏と「あたえられた革命」によりゆがめられた「戦後民主主義」がなお自立できず、苦しみながら跛行しているのであったろう。
1958年警職法闘争から59年三井三池闘争と続く中、日本資本主義の世界レベルでの「自立宣言」たる60年安保改定に対する闘争(60年安保)は、日本資本主義に対応する思想としての「戦後民主主義」の世界的自立をかけた闘いであった(あるべきであった)、だろう。
そのとき吉本が行動をともにした共産同(ブント)=全学連主流派の気分は「暴力革命を辞さず」と「全世界を獲得するために」であったが、具体的な革命の展望は絶望的なほど微小であってほぼないに等しく、吉本が同伴したのは「政治革命」の理念にではなく、むしろその行動のラデイカルさと感性の直接性・身体性ともいうべき点にあった。
それは「虚妄」としての「戦後民主主義」を身体性・直接性から転倒し作り直す『「戦後民主主義革命」の革命』とも言うべきものであったのであって、今日から見れば、フーコーなどのポスト構造主義、リオタールやスガ秀実いうところの「68年革命」の先取りとしてそれはあった。

ただ、吉本の詐術は政治革命を無効と判断しながら、「情況」的発言においてはなお政治革命を志向しているかのようなポーズをとり続けたことにあった。

それゆえに60年以降吉本は、革命の情況には程遠いといい、新左翼諸党派の暴力革命論はとんまとか勘違いとか蔑笑し「原理論」の必要性を説きながら、政治的社会的展望を持った原理論はついに言及されることはなかった。
政治的「左翼」圏内にとどまること、を吉本が公式に放棄するには東欧「社会主義」崩壊後の1995年「わが転向」まで待たねばならない。




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