共同幻想論3 マルクスの普遍的と受苦的

2009年02月28日

普遍的と受苦的

P1070376.JPG
マルクス自身の言葉によれば、次のようである。

  「人間は直接に自然存在である。自然存在として、しかも生きた自
  然存在として、彼は一方では自然的諸力、生の諸力を備えており、
  一つの活動的なこれらの力は彼の中に諸々の素質や堪能性として、
  衝動として現存している。
  他方では彼は自然的な、身体的な、感性的な、対象的な存在として
  動物や植物もまたそうであるように一つの受苦的な、条件
  づけられた、制限された存在
である。」
   (「経済学哲学草稿」第三手稿『ヘーゲル弁証法および哲学一般
    の批判』

またこのようにもいう。

  「類的(たんなる固体を越えた客観的普遍)生活は、人間にあって
  も動物にあっても、肉体的にはまず第1に、人間が(動物と同じ
  く)非有機的な自然によって生きていくという点に存するのであっ
  て、人間が動物より普遍的であればあるほど、人間がそれで生きて
  ゆく非有機的な自然の範囲はますます普遍的である。
  植物、動物、石、空気、光、等々はあるいは自然科学の諸対象とし
  て、あるいは芸術の諸対象として理論的に人間の一部をなしている。
  〜略〜
  肉体的には人間はただこれらの自然産物のみによって生きていく、
  たとえこれらが食物、燃料、衣服、住居といったかたちで現れよう
  とも。
  〜略〜
  人間は自然によって生きていくという意味は自然は人間の身体であ
  り、人間は死なないためには絶えずこれとかかわりあっていなくて
  はならないということである。」
  (「経済学哲学草稿」第一手稿、『疎外された労働』

人間は自然を自分の「非有機的身体」とすることによって「普遍的(類的)存在として生きるが、そのことによって人間はまた自然の制約から離れることのできない「受苦的」な存在である。

貨幣や、党派や、農村共同体や企業や国家のもつ共同幻想の逆説(それらは人間によって、人間を守ったり助けたりするために生み出されながら、成立した後は人間を「受苦的」に制約することがある)が、この自然と人間の関係に由来するものなら、
われわれはさびしい結末に導かれるかもしれない。

しかしマルクスは次のように述べて人間の実践的活動(労働)の希望を語っているように思われる。

  「人間は類(=たんなる固体を越えた客観的普遍)的存在である、
  というのは、人間が類を、人間自身の類をも、その他の事物の類を
  も、実践的および理論的に人間の対象にするから、というだけでな
  く、むしろ――これはただ同じ事柄に対するもうひとつ別な表現に
  すぎないが――むしろまた、人間は自分自身に対して、現在の生き
  た類に対してのように振舞うからからであり、自分自身に対して、
  普遍的なそれゆえ自由な存在に対してのように
  振舞うからである。」
  (「経済学哲学草稿」『疎外された労働』)

    ※     ※     ※     ※

マルクスは、「類的」存在としての人間は、普遍的で自由な存在であり、人類として生き続けるが、「固体」としての人間は個別的に受苦的であり、自分の死をも自分で死ぬことができない存在である、というようにいっているようにみえる。

しかし、叙述の順番に従えば、失ったものは帰ってはこないし、現在は苦悩に満ち、将来はたいした希望もないが、つまり「受苦的」であるが、しかし、日々の人間の生きるための活動は、新たに人間と自然を生み出す活動は「人間的諸力」を発動し「自由な存在」としての普遍的人間を見出すといっているようにもみえる。

マルクスはたぶん、自然哲学の探求で固体まで降りていって、その受苦的真実に打ちのめされてから、類へと引き返してきて、歴史と社会に立ち向かった。その詳細なプロセスはわからないが、有象無象がごたごた絡まり、無残に敗北して斃れていった1840年前後のドイツ〜フランス革命の活動の中で様々な「個体的受苦」に出会った、であろう。

受苦的と普遍的、あるいは普遍的と受苦的な、引き裂かれた存在としての人間がここにみえてくる。


そのように引き裂かれた現在にこそすべてがある、この場所にこそすべてがある、といっているようにみえる。

※それにしても「マルクスがユダヤ人問題によせて」や「経哲草稿」を書いたのは、27〜8歳の頃で、大学を卒業してからいくらも経たない頃であった。なんということが、この世界にあるのか…。

※     ※     ※     ※

たぶん吉本隆明は、マルクス自然哲学のこのドラスティックな「逆説」のなかに、個人(幻想)と共同(幻想)が逆立するという共同幻想論のイメージを硬質な抽象の美しさと一緒につかみだした。

  ※     ※     ※     ※

矛盾と逆説に満ちた「共同幻想」を解明することは、(幻想的な)共同体の原理を類的な自由な普遍的な存在としての人間の原理にまで還元することであるだろう。
困難であっても希望と不安に満ちたそのプロセスのこの場所、にこそ類的な自由な自分自身が発見されるものかもしれない。
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