
雑草だらけの畑だが、休憩するたびにいろんなものが気分をリフレッシュしてくれる。
あるいは、いろんなものが現れる度に休憩を取って、英気を回復する。(ちょっとだけ、だけど)

日本の代表的な野の花、ツユクサだ。
花びらは3枚あって、下のほうに白い小さいのが一つついている。
朝開いた花は、昼にはしぼんでしまう。

キイーと言うような甲高い鳴き声が聞こえてあたりを見回すと、潅木の向こうの、隣の畑に雉がいる。
いかにも、りっぱな雉の姿だ。
雉は、日本の国鳥だが、いまや動物園以外ではめったに見ない。
ここでも飼われているものか野生か、判然としない。
「ケーン」と鳴いて「けんもほろろ」という冷たい態度をあらわす言葉の語源になっていると言う。

いわゆる野菊である。野菊は野に咲く菊に肖た花すべてをさしてそう呼ぶ。多種多様であって、判別も困難である。
野菊はあくまで可憐、清楚であって、見るものの心を浄化させるようだ。
※ ※ ※
「野菊の墓」と日本近代の美的生活思想について
野菊を見て、伊藤左千夫を連想する人はもう多くないのであろうか。
左千夫は、1906年(明治39年)日露「戦勝」後の、近代化推進期に、なお強大な日本封建遺制の中で、個人としての自由性を発揮しようとして悪戦する近代の象徴のような17歳の民子を、語り手である政夫の口を借りてこのように書いている。
真(まこと)に民子は野菊の様な児であった。民子は全くの田舎風
ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐(かれん)で優しく
てそうして品格もあった。厭味とか憎気とかいう所は爪の垢(あか)
ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。
――伊藤左千夫『野菊の墓』
対して民子は、次のように答える。
「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとに
よい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかった
わ。わたし急にりんどうが好きになった。おおええ花……」
花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。
やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
――同前
明治39年は近代日本が「坂の上の雲」(司馬遼太郎)をめがけて、国民国家としての内実を急速に整える青年の時代であった。
「野菊」と「りんどう」に象徴された近代青年期の人間像は、高雅な美意識を強くもつが、あまりに可憐に「美的」または「美学的」(磯田幸一『殉教の美学』)にすぎ、強い意思と論理性と「関係性」への視点を欠き、儚かった、と言わねばならないか。
あるいは、あまりに純朴可憐な、自然と直に交感するような、いわばヨローッぱ的には前近代的な「自然性」の強い「野菊のような」美意識ゆえに、生活思想において「自己本位」や「個人主義」(夏目漱石)といった「関係性」(マルクス:「人間は関係性の総体」)を主張することが困難な社会意識を形成し、結果として「散華」をよしとする美意識偏重・自然性偏重な倫理観に陥ったであろうか。
なぜわれわれの近代は、個人に「幸福」を追求させながら、言い換えれば史上初めて個人が個人の「幸福」を求めなければならない社会(ジグムント・バウマン)を構築しながら個人の生活を一義とするようなふてぶてしい生活観・生活思想を構築し得なかったのであろうか。
この時代以降、日本近代史は強大な封建遺制をそのまま資本主義共同体の秩序へと移行することをテコに、資本主義の急速な発達=市場社会化を実現する。
が、同時に平行するようにして、強烈な美意識に足をとられるように、自己増殖する悪しき共同体主義=国家主義に前のめりにつんのめり、統制派的な世界市場形成への独善的方法論によって、内実も論理性もない化け物のような自家撞着(宗教的天皇制超国家主義)に陥った。
民子と政夫は、無論、封建秩序によってその淡い思いを引き裂かれ、引き裂かれるだけでなく人間としての生命を奪われたのであった。
まことに可憐な美学的個人の儚い生であった。
それは日本近代の前途を予言的に象徴していたかもしれない。
わたしたちの近代は、あまりにいびつであった、と言わねばならないと、わたしは思う。
それは英国を物心両面のスポンサーとして行われた「明治近代化革命」=明治維新のもたらしたヨーロッパ市民社会の「科学性」と論理性に対するコンプレックスとともに、わたしたちの社会の伝統的美学偏重意識にもその淵源があったであろうか。
あるいは、ヨーロッパ市民社会へのコンプレックスが、大正〜昭和期に美学偏重主義(たとえば芥川龍之介・永井荷風・高村光太郎の「下町低回趣味」)を醸成したであろうか。これと強大な、しかしヨーロッパ市民社会に強いコンプレックスをもつ農村共同体が合体したときにわたしたちは白日夢のようなカタストロフィーに陥ったであろうか…。
そしてその美学偏重の歴史は、今日のわたしたちにもなお影響力を残しているのであろうか。どうだろうか―。