定植5週目の、ネコのひたいより

2010年06月27日

定植5週目。

なかなか止まない虫害に、ついに防虫剤を導入。
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食材の買出しに行った時、OKストアで見つけて買った。480ml692円。

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一応、有機農産物に使用可と書いてある。
使用5回以内の指示。
じつにあいまいなはなしである。
「有機」もあいまいなら、「5回」も曖昧で、どれほどの意味があるのか分からない。
1回の使用量なんて、表示もないし、あっても厳密にコントロールできない。
が、こんな表示が普通、な世界なのである。

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茄子のこんな姿を見ては、何とかせねばなるまい。
左は被害最小限でのすくすく育っているほうの茄子。
右は葉も茎も花も虫に食われて、成長も大きく遅れた茄子。

我が友(って、所詮は食べるために植えたのだが、感情はこれを友と感じる)茄子を、可憐な蝶や蛾になるであろう幼虫たちの貪欲な食欲から守らねばならない。

ここで、世界は、敵と味方と、二つに割れる。

敵と味方をつくって生きる、人間の感情は悲しいものである。

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食われたほうの茄子だが、写真で見ると被害は見えにくい。
せっせと防虫した甲斐があって、ようやく新葉も見えてきた。

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一方で、育っているほうの茄子の成長点にはたくさんの花が着き始めた。
収穫まであと2週間くらいか。

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トマトも確実に着果している。
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鶏肉専門店 梅や@綱島 その2 濃厚カラメルの大人味プリン〜「素」の自然性へ〜自然と味覚の倫理

2010年06月26日

帰りがけに、気になっていたものを買った(^^♪

レジ下のショーケースにこじんまりとまとまって置かれていたプリンだ。
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かえって早速あけてみる。
三浦半島産地卵のプリンだ。1個180円。

買うときに「もち帰り時間は?」と聞かれた。保冷剤を入れてくれるのだ。1個180円のプリンに、保冷剤を入れるのも大変だな〜などと思ってしまった。
というのも、パティスリーと名のつく店で買うプリンはたいてい400円はするから、安いな〜と思っていたからだ。

梅やは本来業務用(焼き鳥屋とかホテルとかレストラン)を中心とする鶏肉専門店であって、様々なブランド鶏を扱うが、卵は「三浦半島産」という表示だ。
安易な○○鶏的ブランド表示が横行する中、専門店としての見識を感じる。

横から見るとこんな風。
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ありゃ、ピンボ(>_<)
いまとなっては読み取れないものもあるが、保存料や添加物は使われていないことははっきりとわかる。

下層部分には、色の濃いカラメルソースがたっぷり目に。
はやくたべた〜い!

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少しすくうとプリン本体は、やや堅め。滑らかでもクリーミーでもなく甘くもない。
口に含むと、ゆっくりと卵の味わい。
きっちりと過不足なく卵の味がする。
われわれの消費資本主義が生み出した、味わい主導の(うまければ良い、という類の)やたらにクリーミーで甘い、味覚に淫したものとは明らかに違う。
 ※豆腐における、京都森嘉の清冽な深さと、近頃のクリーミーな「男
  前」や「ジョニー」との違いと同様であり、
  チーズにおけるヨーロッパ伝統のウォッシュの深さとアメリカンな
  サンタンドレの生クリームの濃厚さの違いとも、また同様であろう。

ここには、美味に淫することなく、素材に忠実であろうとする「作り手」の、作り手としての健全な倫理性とでもいうか、もの作りにおけるクラフトマンシップに相当するような、潔さがある。
消費資本主義の過剰な装飾や過剰な味覚に抗する、
「素」の自然性があり、その自然性に沿って生きようとする人間の自然性がある。

     ※     ※     ※

今度は、底まで掘り下げて、たっぷりカラメルをすくう。

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これまた媚びも、へつらいもない、ほろ苦く、あくまでほろ苦く、最後にほんのり甘いカラメルソースの深い旨みがすとんと舌を通過して消えてゆく。
プリン本体はこのカラメルを引き立て味わうための土台(プラットフォーム)の役割だ。

なんとも深い―
がすぐに消えてなくなる、はかなさ。

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この、はかなさに惹かれて、
もう一口、もう一口、と止まらなくなる。
もっとカラメルを、と、わかっていてもやはり、
次第に味覚の欲求に淫してしまう(^^ゞ
これも「欲望」に曳かれて生きる人間ならではの苦痛と裏腹の口福のなせる業、であろうか。

食材への愛情が伝わる、ほろ苦い大人味の地卵プリン、いただきました。
山下さん、作り手の皆さんごちそうさま。


     ※     ※     ※

梅や綱島店
横浜市港北区綱島西1-7-15
tel 045-545-2877
HP http://umeya-torinikuten.co.jp/tsunashima.html
年中無休




鶏肉専門店 梅や@綱島 老舗鶏肉店の親子丼で鶏肉の柔らかな美味を再発見する

2010年06月19日

親子丼は影が薄い?

親子丼は、ある意味当たり障りのない、影の薄い印象がある。
牛丼が専門チェーンとして成立し、かつ丼は大人気メニューとして丼ものの不動の第一人者であるのに比べ、「親子丼は蕎麦やのサイドメニューだよね…。味もたいがいそば出汁だし…」と言う具合である。
とくに食関係者はそのように感じるのではないか。
横浜エリアを代表する鶏肉専門店梅や
の山下さんともそんな話をした。

     ※     ※     ※

ほんとの鶏の味がする、ここだけの親子丼

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親子丼(白)680円。
とりがらスープに塩ベースの味付けだ。
見るからに白い。
大きな肉がごろごろしている。
普通の親子丼ではない。

口にいれると、とても当たりが柔らかい。
ふんわりしたうまみのある塩味に続いて
さくっと柔らかな肉の食感。
これだよ、この柔らかさ。
こんなに大きい肉なのにふわっとあたりサクッと噛み切れる。
その後は、肉汁と一緒に爽やかな旨みががつんと広がる。
2回3回とかむたびに爽やかな「がつん」が来る。
食べ応えのある、これが鶏肉本来の味わい。

塩だけで引き出される肉の味に、スープが絡むから余計深い。
柔らかで爽やかで強くて深い親子丼、
何度も何度も噛み締めて堪能させてもらった。
鶏のうまさ、鶏肉の味、おかげさまで再発見だ。

     ※     ※     ※

梅やについて

梅やは創業50余年、横浜を代表する鶏肉店の老舗である。
本店を歓楽街伊勢佐木町裏に構え、地元飲食店を主体に業務用が主力である。傍ら、本店と横浜高島屋に小売部門がある。
本店にはもちろん自社工場をもち解体当日に肉を提供できる。
鶏肉は通常、解体後6〜24時間くらいの新鮮なうちが、もっとも爽やかで美味しいからである。

  ※パンフレットにもHPにも昔の本店の写真から書き起こした味わい
   深いイラストが使われている。
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その3店目が綱島店だ。
2009年の9月25日にオープンした。
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店舗のファサードは肉屋らしからぬ(正確には鶏肉と焼き鳥主体の惣菜屋さんあのだが)清楚さ、シンプルさ、で上品。
のぼりやメニューはあっても、清潔さがかって、あの肉屋的なエネルギッシュな猥雑さを微塵も感じさせない。人柄、というものであろうか。
焼き鳥は95円〜、メンチカツ130円。
結構がんばっている価格、と思う。
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この肉屋(総菜屋)の傍らにふと見ればそれと気づく、というようにひっそりと、綱島店ではじめて試みたイートインのコーナーがある。
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メニューは醤油ベースの親子丼(赤)、塩ベースの親子丼(白)各680円と、焼き鳥丼680円、親子カレー780円などである。
親子丼にはミニサラダ、鶏スープ、漬物がつく。

親子丼の赤と白は見た目もはっきり赤と白ですぐわかる。
赤も、やたらに甘いわけではなく、すっきりと美味しい。
鶏肉の味を大事にしているのが良く伝わる。

ホンモノの鶏肉を味わえる、ここだけの親子丼、ご馳走様でした。

     ※     ※     ※

梅や綱島店
横浜市港北区綱島西1-7-15
tel 045-545-2877
HP http://umeya-torinikuten.co.jp/tsunashima.html
年中無休


     ※     ※     ※

肉についての雑感

牛肉の濃厚な円熟味のあるうまみは、深く力強い。
豚肉のあたりの強い食感とコラーゲン蛋白のインパクトの強さは他には替えがたい。
翻って鶏肉は、肥育期間短く低価格で食感軽く、食味も淡白とされる。特にこのクニの食事情では身近な食肉である。が、それゆえか、牛豚に比べ尊崇されない。

栄養的にみると、蛋白は牛豚鶏とも同程度に含むし、コラーゲン蛋白も豚鶏では大量に含む。
脂質はどれも同程度に含む。が、鶏では皮の部分を除き少ない。
とりわけささみは独特のさわやかな食感をもつが脂質が0.8%ほどしかなく、これを指して「皮を取り除いて食べるとヘルシー」とか「鶏肉は低カロリーでヘルシーなたべもの」などと大方の識者が述べるのは、いかがなものか。

鶏の脂には大量の不飽和脂肪酸を含み、コラーゲンは皮付近に多く、また脂溶性ビタミンの摂取に必要で、牛豚の重厚に対して軽やかではあるが他に替えがたいうまみを凝縮している。
「低カロリー=健康」などというのは、成人病が横行する現代の特殊な見方であって、人類にとって脂はもちろん必須3大栄養素の、重要な一つである。

すなわち生命活動にも味覚にも多大な貢献をしているのである。
と、まあ、「親子丼」の話のついでに、少し鶏肉を擁護したいのである。


 ※このクニの近代主義的「疫学的判断の尊重」について
 低カロリー=ヘルシーなどというのは、塩分のとりすぎが脳卒中多発
 の原因などと断定した確か昭和20年代占領期の米軍疫学調査と同様の
 木を見て森を見ない類の近代科学=医学の盲断に近いと思われる。
 食生活は無論、多様多種な栄養のバランスであって、そのバランスの とり方は一人ひとり違う。
 一人ひとりが違う、個別の自然の関係性として生命体を構成するから
 である。
 上述の「低カロリー一般がヘルシー」などと言うのは「さし」の入っ
 た和牛や分厚い脂肪層をもつ豚ロースなどの脂を異様
 に好むこのクニの、わずか30年ほどの近代後期消費資本主義時代の食
 生活が、生理的生命原理までも過剰な資本の自己増殖原理によって侵
 食され自律しえなくなった人々の、鶏肉に対する無理解=「蔑視」と さえ言いたくなる。
 わたしは、減塩も低カロリーも、本末転倒したスローガン(共同幻
 想)としてはご免蒙りたい。

     ※     ※     ※

虫害発生!!〜とほほな、定植3週間目の茄子とトマト 自然との不可逆かつ可逆的な疎外

2010年06月17日

虫害発生!!である。
6月14日には梅雨入りし、気温も昨日今日と30度を越える。

サッカーワールドカップでは日本代表チームが番狂わせ?
都市の荒地に営まれる、わがネコのひたいより狭い菜園も
順調に育っている、と思いきや、
こちらは悪いほうの番狂わせ、というか当然予想はできたのであるが、
虫害である。

犯人は分かっている。
こいつである。
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こいつであると分かったのは、
もちろん本日こいつを
柔らかな、美味しそうな茄子の若葉の裏で発見したからである。
そのときは、怒りに満ちた感情でただちに、「駆除」してしまった。
なので写真は撮れてない。
上の写真はウィキペデイアからお借りした。

こいつは、かわいらしいモンシロチョウの幼虫で、
いわゆる青虫の類である。
詳しくはこちらをご覧ください。
(虫嫌いの方は見てはいけません。ご注意ください)

ここ1週間ほど被害が続き、
トマトはこんな風に食われてしまった。
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さらには、茎まで食われ、倒れてしまった。
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トマトの4本のうちの一本の茎が、第4花房の上で食われている。
まあここまで、順調で、第4花房まで十分着果ししているので、
「利益」又は収穫からいえば小さくはないが、大きな影響ではない、と言っておこう。

茄子もぼろぼろである。
2本のうち、
スペースの加減で(単に狭いので…とほほ(ToT)/~~~)
2本しか植えられなかったうちの一本がこんな風である。
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葉は、ぼろぼろ、である。
花も、すべて食われてしまっている。
もうこの株からは次の花を待つしかない。
厳しい。

しかし、だ、冷静に考えれば、である、これが、自然というものである。と思う。
茄子の、もう一本は被害を最小限に食い止めている。
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しかしながら、わたしは、こいつをこの茄子の葉裏で発見したとき、
「害虫」であるモンシロチョウの幼虫に対して、たかが自然の一員である茄子とトマトの被害に対して、当然のようにもてる権力を行使して、何の迷いもなく「駆除」したのである。
しかも、怒りの感情を持って、である。

(ほんとうは、少し迷い処置の仕方を考えはしたのだが、「かわいい」親近感をもつ茄子とトマトへの加害者であるこいつに、防御的な意味と、そして確かに復讐の感情も持って果断に対処したのである)

つまり、わたしは、いつでもニホン軍国主義になりナチスにも、なりうる、危ない人間の一人でしかないのである。

青虫を駆除しなければ、わたしは今年茄子を収穫できないかもしれない。この危機に対して、わたしはわたしの自然権力を当然のように行使しうる。
そして行使した。
自然のうちに、わたしは自然との可逆的な相関関係にあり(つまりいつでも加害者にも被害者にもなりうる)、不可逆な疎外関係にある(つまり人間であることにおいて自然に対して自然外のもののように振舞う)。
こうした人間の自然存在としての、根源的な自己矛盾、二重性、は人間社会にもそのまま投影されているであろう。

人間は意識、または精神を有するが、その結果、自己を他者と区別する。区別した瞬間に、共生し共出現しながら孤独であり、社会を作りながら排除し差別しうる「敵」を見出す存在である。

あきらめて、次のように思うべきであろうか。

私たちはやはり、生命ある存在であることにおいてたくさんの不都合を有している、と言わねばならない。すなわち、吉本隆明言うところの「原生的疎外」であるほかないものである。

また「いのち」を喰らう「いのち」として、つまり「喰らい」つつ「喰らわれる」ものとしてのみ存在しうるもの、でもある。

そして、同じ自然界にありながら近親性の感情を抱くもの、利益につながるものを擁護し、利益に反するもの疎隔な関係にあるものを排除しようとする。

なんとも厄介なものである。
posted by foody at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 菜園

気温よ、上がれ!〜定植2週間後の茄子とトマト

2010年06月04日

植え付けから2週間が経過。
植え付けから低温期が続いたが、我がネコのひたいより狭い菜園のトマトも茄子もそれなりにしっかりしている。

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トマトはぐんぐん伸びて1mを越えた。
すでに花房も4つほどついている。

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一番下の最初の花房ではすでに結実している。
一番大きいのでまだ直径2センチほど。
これはあと40日ほど(7月10日から20日ごろ)で収穫、の、はず…。

この大きさが、3〜4センチになったら追肥をする。
以後追肥は毎月一回。


茄子は葉が大きく成長したが丈はあまり伸びない。草丈40cmほどか。
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良く見ると、一つだけだった花芽が3つになっている(^^♪

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左下に一番花、中央に開きかけの二番花、その上にまだ蕾の三番花。
一番花と二番花は、結実したらすぐに摘み取る。
株を大きく育てるためだ。

こちらは開花後収穫まで30日ほど(のはず)。
植え付け後2週に一度、追肥をする。
もう、追肥しなきゃ(^^ゞ

昨日、今日と最高気温は25度を少し越え、最低気温は16度ほど。
明日から例年並みに気温は上がり、最低気温は20度に近づく。
この調子なら、たぶん順調に育ってくれるだろう。

7月が楽しみだ。
気温よ上がれ〜〜、夏よ来い〜〜〜♪
posted by foody at 10:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 菜園

鳩山辞任〜国民国家はどのように廃棄されるか

2010年06月03日

近代国民国家体制廃棄への「率直で力のある」自爆
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昨日、鳩山首相が辞任表明した。
辞任表明演説では、その原因となった事態は、
1 国内支配共同体との差し違え(政治と金の話)、
2 世界市場システムへの拙速な反抗(普天間移設の話)による地域主権主義の自爆
の二つであった。
演説は、論旨明快、率直で力を感じた。

率直さはこの人らしく、時に政治的実務的な拙劣に直結するのであるが、清冽さは捨てがたいものを感じる。力は、現実の政治過程の諸関係が強いる不本意や口に出せないでいたこと、すなわち小沢・鳩山の資金問題と普天間基地移設問題にまつわる「思い」をさっぱりと口に出したことの自分らしさへの確信がもたらすものであろうか。

思えば、「政治と金」問題についての対処がすっきりしないままで推移してきたのは、鳩山の唱える「クリーン」な「倫理」が、本人がいかに真剣に理想を目指そうと、その出自からして、経済的に拠って立つ基盤は結局国内支配共同体であり、いわば「同じ穴の狢」であることを免れないと言う悲劇的自己矛盾を自ら際立てて証明してしてしまっていた。また鳩山が拠った対抗思想も対抗勢力の実態も脆弱で非力であることを示している。
最後に力を振り絞って、もっとも身近な支配共同体勢力であり本来やめて当然の小沢一郎と、それも敢えて刺し違えたように見える発言に「理想」を口にするものの矜持が最後の一刺しの微力となって現れた、と言うべきか。

「普天間問題」は世界市場システムを軍産複合体制で貫徹しようとする近代世界資本主義=市場主義の力を、拙劣にも勘違いして、地域主権の論理(人間の生活のために生存共同体の利益が優先されるべきで、地域生存共同体が持続するために、その範囲内で世界市場体制は維持されるべき)を対置した、「狂者ドン・キホーテ」的な突進であったが、軽くいなされて倒れてしまった。あまりに非力な実体をわたしたちはあらためて認識させられる。

そもそも2009年総選挙における民主党のブーム的勝利は、近代市場社会の資本の自己増殖論理を支える支配共同体の枠組が解体しつつあることの大衆的表現であっただろう。
鳩山政権は国内支配共同体解体の象徴であり、なお残存する強固な市場社会と市場拡大勢力に対する弱小非市場化勢力のきわめて微妙で繊細なバランスの上のトリックスターのようなものであっただろうか。
政権の崩壊は、その危険性についての認識を欠いた、あまりの率直な態度とあまりに弱小な力のアンバランスが招いた自爆であったと言うほかない。

固体の近代=国民国家体制から政治的国家の死滅へ

資本の自己運動は、産業化推進のため「国家」による監視・システムを有効に活用した。
資本は、本来的に国家を土台に世界市場を形成し拡大してきた。
国家は資本の庇護者から支援者に変わり事実上一体のものであったが、
本格的な世界市場の形成<グローバリズム>からは、世界市場は国家の「庇護」や「支援」を「規制」ととらえ、国民国家の利害と資本の利害は一致しなくなってきた。

資本は国家から離陸して世界市場経済に所属している。
そして、時に、その本来的な自己本位さのために「地域経済」や「国民経済」に、したがって「国民国家」とも、敵対することさえあるのだ。
市場化システムの推進者としての国民国家は、軸足を、本来の使命である市場システムの推進から、地域=生存ためのシステムまたは共同体の持続へと移すほかなく、監視者・支配者の地位から取り除かれ、解体されつつあると言わねばならないだろう。
(ここでは、アメリカだけが強い市場原理主義勢力=軍産複合体が軌道修正しながら、なお市場システムを推進する監視者・支配者として行動しようとしているように見える)

普天間問題で際立っていたのは、その進行の拙劣さとともに、首相が沖縄県や徳之島の自治体に(現在の仮想の地域主権者に)、「依頼」したり、結果として「謝罪」したりする姿勢であった。
「成田」の時に、こんなことは考えられないことであっただろう。「成田」の時には国民国家は、「合理的に」有無を言わさず強制収用手続きを進め、国家の暴力装置を「合理的」に使用し、成田―三里塚における生存=地域共同体は惨めに踏みにじられ、解体された。
「法は支配者の法」であり、国民国家が地域共同体の敵であることを鮮明に示したのであった。
もちろん支配共同体の政治セクターたる政府が「依頼」したり「謝罪」したりはしなかった。

今回の鳩山の「地方優位」という姿勢は、なにがしか、時代の変転を感じさせる、いままでになかったものだ。

これまで、国家の利害がもっとも大切で、地方は国家の利害のために、国家の指揮にしたがってきたが、しかし国内においては、すでに生存-生活を保障するシステムとしての「地域」の利害がもっとも大切だという事態になりつつある。


資本は、市場化された地域では、すでに国境を越えて、諸「国民国家」の「規制」を脱出して「世界市場経済」の拡大にいそしんでいる。その先端で残り少なくなってきた地球上の非市場化勢力(イスラム、北朝鮮など)との抗争を主導しているのがアメリカ軍産複合体制である。
今日、軍事・外交などにおいては世界市場を主導するアメリカのもと、「市場化社会」勢力として統一されつつあるところの、ニホンなどの市場内地域では政治的国家は主体性を失い「死滅」しつつあり、社会保障主体の「地域政府」化しつつある。
政治的「国家」は現実には、世界市場システムを主導するアメリカ軍産複合体制が、一手に担おうとしている。

ここでは諸「国民国家」は、すでに、主体ではなく「地域」に対する従属的なしかし、いまだ強力な支援者である。すなわち、「国家」は主権者としての「地域」の生存-生活保障システム(それはまだ建設、または再建に着手された段階であって、まことに未熟・微弱といわねばならないが)に従属し、それら主権者が協働してしてゆくための支援システムである。
したがって国内「政治」というものは独立したものとしては消滅しつつあり、少なくとも、「政治」を国家権力をめぐる駆け引きや術数であると理解する旧来の「政治」は最早存立基盤を失っている。

(もちろん単純な共同体主義で事はすまないのであって、そこでは生存保障と自由との深遠にして困難なせめぎ合いが展開されてゆくのであるが)


     ※     ※     ※

しかしながら、今回の辞任演説の中でも、鳩山は「国難」ということばを使っている(一方で「地域主権」と言いながら、である)。
「国難」はアメリカ政府に対して、交渉力の極端に微弱な「関係」をさしていよう。
今日でも国家が自国資本を庇護または支援して国家どうしが自国資本の市場拡大を競っているという幻想が生き残っている。

世界化しつつある市場社会の中で、役割を終えて解体されつつある(ニホンなどの)「国民国家」の残存支配共同体は、なお「国際関係」の舞台では、政治的「国家」を僭称して、政治的「国家が」最大の利益誘導者であるかのように振舞う欺瞞(個人や地域との逆立性を露出した共同幻想であること)を強いられているのである。


生存―生活保障のために「相互―生存―単位」としての地域的・非地域的コミュニティの建設、さらに「協働社会」へ

今日、市場社会によって分断され孤立した個人が、生存と生活を保障する事の可能な強い「相互―生存―単位」を地域的共同体に、または非地域的コミュニティに構築してゆくことが最優先の課題であるように見える。それは生存―生活を保障する主権の最小単位であって、かつ最終単位である。
さらには地域間、コミュニティ間の協働組織たる広域協働組織、それらの日本語文化圏内(日本市場圏内ではなく)における協働組織としての文化圏協働体が、生存―生活保障の「主権的担い手」たる単位コミュニティや単位地域を支援する生存―生活保障国家が実体として構築されてゆくと思われる。

今日の隙間のない「世界市場社会化」がもたらした事態に、その事実をはっきりと認識し、非市場的な「生存ー生活」の場を「協働社会」として対置してゆくこと。

人間の歴史に、大文字も小文字もありはしまい。そのように見えるのは「歴史」が国民国家のものだという錯誤から来る言説に過ぎない。

わたしたちは、自然との絡み合いの中で基本的に自らを異和として、ようやく普通に認識できるようになったに過ぎないが、すでに、市場と共同体が絡み合う次代の、また今後しばらくの「社会」システムの構築が始まっている。

ネコのひたいより狭くとも菜園は土地を生き返らせる〜都市の荒野に咲く茄子の可憐さ

2010年06月02日

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いま住んでいる家の南側にわずかに土地がある。
ネコのひたいほどの…という形容がぴったりだろう。
かつては池など掘って庭に設えていたらしいが、いまは3分の2程を駐車場が占め、残る一角、一坪強はほぼ単なる空地である。

何しろ、ちょっと掘っても小石や池の残骸であろうか、コンクリートの破片だらけである。そもそも土が堅く、水はけも良いとは言えない。
まさしく「都市の中の荒野」である。
救いは日当たりがまあまあ、ということか。
といっても普通ではとても畑にはならない土地だ。
都市は、土地を殺すように、「偉大な食料庫」にして「道具箱」(マルクス)である土地を、殺すようにしてできており、そして生きていくもの、である。

ここに2週ほど前に、菜園らしきものが始まった。
日ごろウチに比べれば相当広い庭で野菜作りや花作りを楽しむ、お隣が強く奨めて、手伝ってもくれてトマトの苗を4本ほど植えた。

これに、調子を得て、その後、すぐに茄子を2本植えた。
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鍬と言うような農具はないので、
シャベルで(シャベルが首都圏の非農家の一般家庭にあるのも少ないかとは思うが…)堅い土を掘り返し、均一に細かく砕き、腐葉土2kg程を混ぜ、化成肥料100g程を撒き、もう一度シャベルで天地返しのように土を混ぜる。
一度水をやって落ち着かせる。
一週間も寝かせる余裕も落ち着きもない。
一時間ほどたってすぐに、すでに花をつけた茄子の苗を植えつけた。
「追肥」も、一週間も待つ気持ちもなく、何しろほとんど石に植物を植えるようなものなので、すぐに少しはなして化成肥料を100gほど置き、土をかぶせ、全体に満遍なく水をやった。
支柱を立て、麻紐で結わえた。

その翌日5月23日からから、最低気温14度程、最高気温17〜9度ほどの低温の日が1週間ほど続いた。夏野菜は20度を越えないと、発芽も成長も良くない。

植えてしまうと、気になって気になって仕様がない。
こんな土で、強引に肥料を混ぜ、根に響かないだろうか、などと気に病む。

朝起きるとのぞきにいく。

茄子は、幸い何事もなく元気に葉を張っている。
都市の荒野にけなげにも咲く花は、
言いようもなく可憐だ。

と、わたしには思える。
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ブログ再開・最近読んだ本Cとりあえずリストで

2010年06月02日

遅々としてブログ化が進まないのでとりあえずリストで。
全部を読了したわけでもなく、丁寧に読んだわけでもないが、何かは残っている。

いずれ丁寧に取り上げて行きたい。

     ※     ※     ※

瀬尾育生・稲川方人『詩的間伐 対話2002-2009』思潮社2009年10月15日3500円+税、宇野弘蔵『恐慌論』岩波文庫2010年2月16日780円+税、藤井貞和『源氏物語の始原と現在 付 バリケードの中の源氏物語』岩波現代文庫2010年2月16日1100円+税


柄谷行人『思考のパラドックス』第三文明社1984年5月31日第1刷6月30日第3刷1800円+税→720円、川本隆史『共生から』岩波書店哲学塾2008年4月24日第1刷1300円+税→680円、レイチェル・カーソン『沈黙の春』新潮文庫昭和49年2月20日発行平成16年6月25日62刷改版

ミシェル・フーコー著中村雄二郎訳『知の考古学』改訳初版1981年2月10日、改訳新装初版1995年8月25日、新装新版2006年2月28日、新装新版第3刷2008年9月1日3500円+税

東浩紀『郵便的不安たち』朝日新聞社1999年8月1日第1刷2002年7月20日第5刷2600円+税

大塚英志『初心者のための「文学」』角川文庫平成20年7月25日初版発行原本2006年角川書店667円+税、大塚英志『彼女たちの連合赤軍』角川文庫平成13年5月25日初版平成20年7月10日4版原本1996年12月文芸春秋社、大塚英志『木島日記』角川文庫平成15年3月25日 初版平成16年6月20日三版 原本平成12年7月角川書店552円+税

橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』ちくま文庫2006年5月10日第1刷2009年2月5日第5刷780円+税・原本2001年6月筑摩書房、

鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫2000年5月10日第1刷2007年1月22日第18刷960円+税→525、原本1983年『日本二千年の人口史』PHP研究所

笠井潔『例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』朝日新聞出版2010年3月30日(初出角川トリッパー2006年春季〜2008年春季)4000円+税、ヘーゲル・伴博訳『キリスト教の精神とその運命』平凡社ライブラリー1997年8月15日第1刷2004年9月1日第2刷1,200円+税、ジョルジュ・バタイユ著出口裕弘訳『内的体験 無神学大全』1998年6月15日第1刷2008年3月28日第5刷原本1970年11月現代思潮社、『季刊atプラス03号』2009年2月7日太田出版。『野菜作り花作り02』2010年3月14日発行朝日新聞出版580円。

神津陽『極私的全共闘史 中大1965-1968』彩流社2007年12月8日1800円+税、武井昭夫『層としての学生運動』発行スペース伽耶発売星雲社2005年6月15日3,200円+税、家庭菜園検定委員会『畑と野菜のこと』家の光協会2008年10月13日第1刷1,200円+税

渡辺和靖『吉本隆明の1940年代』ぺりかん社2010年4月22日第1刷2800円+税宮崎学『突破者―戦後史の闇を駆け抜けた50年 上』幻冬舎アウトロー文庫

ブログ再開・最近読んだ本B 阿部和重の初発の非在の「少女」から「神町サーガへ」へのエロスと循環の神話へ 『アメリカの夜』と『グランドフィナーレ』

2010年06月02日

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阿部和重『アメリカの夜』・『グランドフィナーレ』

現存在の自由と不安を思想的に追求する

阿部和重は山形県出身の、1968年(!)生まれの作家だ。高校を中退して映画監督を目指して上京した。
近代の人間主義、理性主義が否定されるポストモダン的思想状況下で、人間の存在のありようを知的結構の中で追求している。すなわち、自己中心主義=市場原理主義でない、あるべき存在とというものが、実践的な生の現場でどのように現出し実現するするのか、その契機と可能性を造形しようとしているように思われる。

デビュー作『アメリカの夜』では、日本におけるポストモダンの代表的な思考者である柄谷行人の『探求』における、共同主観的な「他者」性を内部に繰り込んでいるような主体の追及をパロディしつつ、同一人物を分裂した2人の主体として登場させた。語られる主人公は自己を語りながら「特別な存在」=社会的なまったき承認と賞賛を受けるような存在を目指すが、彼が生きる現在の「職場」では承認も賞賛も受けられずついには、「外部」である海外へと脱出してしまう。出口のない閉塞とアイデンテティの不安に翻弄される、ポストモダンの社会状況を相当早い時期に、モノローグにモノローグが重ねられ重層していく手法で表現した。
その意味では、近代市民社会の中の孤独と自由と不安をスケール大きく正面から思想的に捉える作家であり、かつての、大江健三郎や高橋和巳や村上春樹の初期の軌跡が思い起こされる。

失われた「少女」への「逸脱」と回帰の物語へ

それから概ね10年、2003年には『シンセミア』で毎日出版文化賞・伊藤整文学賞を受賞して、『グランドフィナーレ』では、芥川賞を受賞した。
『グランドフィナーレ』では主人公は少女ヌード写真にかかわり「家庭」を崩壊させた孤独な男だ。市場社会の「職場」と「家庭」から、はじき出されるのは『アメリカの夜』と同じだが、今度は実際の故郷である、また「相互扶助」的な空気が濃密に残る地域共同体的なもの、である「神町」に帰る。ともかくも帰る場はあったのである。しかし「神町」は、たんに共生的共同体であるのではなく、「神」のいる町として「大きな物語」があるのではないかと主人公には感じられ、再び「少女」へと吸い寄せられるようにかかわっていく。

「少女」は失われた(あるべき)故郷または未来への暖かい夢であり、同時に主人公が行動に踏み出す誘因であり出発点でもあるだろう。
また、「少女」は人間の行動を促すフロイトの「欲動」の根源であるようでもあり、竹田青嗣言うところの「エロス的原理」の象徴のようであり、吉本隆明の「原生的疎外」の現れのようでもあり、マルクスいうところの自らに対して自由な存在に対するかのように振舞う「類的存在」としての人間の行動を形作る「美の諸法則」の現れのようでもある。

しかしながら「少女」は、本来的に存在の「裏側」の「非在なるもの」としてのみ詩的にまたは思想的に実在する。「裏側」の大きな深い通路を抱え込みながら、「存在」へとつなげて行く困難は数多の偉大な思想家や芸術家が実証してきた。

「グランドフィナーレ」では、フィナーレのはるか手前のところで、市場社会から疎外され、故郷の家族に生活の場を与えられながら地域共同体にももう一つ馴染まないで、生気をなくした無気力な主人公が、自殺願望を示唆する「少女」を「救う」決意をするところで終わる。

「少女」を「救う」決意は、不安と戦う人間の生衝動の原点であり、生存秩序からの「逸脱」の出発点であるが、しかし同時に最後にまたたどり着く「自由」と「安逸」の「夢」でもあるかもしれない。
つまり、初発において、すでに大団円=「グランドフィナーレ」が「循環」なるもの、すなわち「永遠」、として暗示されているだろう。

現在のところ、作家は「神町サーガ」を標榜する最新作「ピストルズ」へと性急に走っているように見える。
物語の復活へのストーリーはまだ始まったばかりだが、初発の非在の「少女」と、「少女を救う決意」が大事なのだ、と言っておきたい。

     ※     ※     ※

人間は共同体の中で保護されて生きながら、同時に,「あるはず」の、つまり「非在」の「自己」や「自由」を夢見る存在である。そして「夢見る」そのとき、共同体の中で割当てられた役割から逸脱し、または脱落して「夢」へと踏み出してしまう厄介な人間の宿業はどんな「神話」を作り上げるだろう。
作家や芸術家思想家は、「新しい神話」を構築する義務がある。
正面から思想的な課題を追っていく、また小説の形式に挑戦する作家の進む道に注目していきたい。

※     ※     ※

■阿部和重『アメリカの夜』講談社文庫2001年1月15日第1刷2006年3月24日(原本1994年7月講談社・)1994年『群像』新人賞)、『グランドフィナーレ』講談社文庫2007年7月13日第1刷(原本2005年2月講談社・第123回芥川賞)

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