チャップリンおばさんのお駄賃の美味その2 懐かしくもかなしいヘルシーヤーコンの美味

2010年05月28日

チャップリンおばさん
には、実は、生のヤーコンも一ついただいていた。
隠していたわけではないが、
毎度ながら、料理を食べるほうに気をとられ、
生素材のヤーコンは無視してしまい、写真を撮り忘れていたので、触れないでいたのだ。

なので、ヤーコンとはこんなものという写真を。
untitled.jpgmain_image.jpg

甘くてしゃきしゃきのヤーコンとは?

ヤーコンはジャガイモ同様南米のアンデス地方の原産、なす科である。成長すると草丈は1.5mほどにもなる。

実(といっても根ですが)も花もさつまいもに似ているが、食感はまるでサクサクしゃきしゃきで「梨」みたいで甘みもある。
生でも加熱しても食べられるが、収穫したては甘味がなく、10日〜1ヶ月ほどおくと甘味が急速に増す。その変化は劇的である。
でんぷんは含まず食物繊維が多く低カロリー。
甘みはオリゴ糖で、人体には吸収されず「ヘルシー」な甘味。赤ワインに匹敵するポリフェノール(抗酸化作用)やミネラル類を大量に含む。そのため、「ダイエットによい」「整腸作用がある」「コレステロールを下げる」「糖尿病によい」などとされる、多能な食べ物だ。
※詳しくはこちらこちら

ヘルシー(なはず)のおいしいヤーコン料理

我が家では、ヤーコンは生でルッコラや胡瓜やトマトとサラダにして食べた。
しゃきしゃき、さっぱりだが味わいのある食べ物。朝ご飯にもぴったりだ。
もちろん背後にいるのは、チャップリンおばさんお奨めの、ケチャップである。
P1140964.JPG

低カロリーにして大量のポリフェノールを含有するヤーコンは、高血圧でダイエット命令を受けているお父さん(わたしのことだが)がほぼ独占的に食した。
5回くらいに分けて毎日ちょっとずつ食べた。
ある日のメニュー。
たこ飯、焼きナス、けんちん汁、その他少々。ヤーコンはカニカマと一緒にマヨネーズ(!)で和えて、隠し味にもちろんケチャップだ。
結局、これを肴にお酒を呑んだ。

おいしいつまみのおかげで、お酒もおいしく、少しのつもりが、やや、少し、ちょっとだけ、度を越した、のかもしれない、が・・・。

P1140906.JPG

ヤーコンの和え物のアップ。
P1140911.JPG

ヘルシーなはずのヤーコン、おかげでお酒もたっぷりいただきました。
チャップリンおばさん、ごちそうさま。

     ※     ※     ※

ヤーコンは、かつて横浜・崎陽軒本店・嘉宮をたち上げ、総料理長をしていた曽兆明さんに教えられた。思えば三崎八百辰の原さんと出会ったのも、曽さんのところでだった。
ほんの7〜8年前のことではなかったか。

曽さんは、料理はもちろん「鉄人」級においしく、マスコミでは人気もありスターシェフだったが、崎陽軒では気質的に肌の合わないことが多いようで必ずしも恵まれてはいなかった。
わたしは小さな「壺料理」の店を楽しく一緒につくった。
曽さんはその後すぐに、鬱積したものを吐き出したかったのか、あくどいスポンサーに唆されたのであろうか、独立を図ったが、うまくいかず不遇をかこちながらこの世を去った。(と聞いた)

ヤーコンは、この世の、市場社会の、企業社会の不条理を思い出させる懐かしくもかなしい(悲し・愛し)食べ物でもある。
posted by foody at 10:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | おいしいもの

チャップリンおばさんのお駄賃の美味 Uzumakiかわさき育ち野菜市@すくらむ21(溝口)その2

2010年05月27日

チャップリンおばさんこと、料理研究家の藤崎里子先生は食関係の公職もこなす料理・栄養の先生である。
それが、とある日、どうしてかは良く分からないが、トマトのリコピン酸の抗酸化力と出会い、それ以来ケチャップの栄養と味わいと不思議な力にとりつかれてPC初心なのにHPをたち上げ、料理レシピから、豆知識から書き下ろしケチャップ童話までさながらケチャップパラダイスを構築してきた、まさにケチャップ界のチャップリン的存在なのである。
(と思うのだが(^^ゞ、
なぜ「チャップリン」おばさんなのか、その正確な由来は実は聞いたことがない。
ない、が、本人を目の前にすれば誰だって、本人が発散する夥しい量のチャップリン的エネルギーに圧倒されて、そんな質問の必要なし!、と思ってしまうにちがいない。
と、わたしは思う)
  ※<ケチャップ>と<チャップリン>のたんなる語呂合わせなので
   はないかという微かな疑念は禁じえないのであるが…(笑)。
   しかしチャップリンへの傾倒または失われた時間への仄かな思慕
   さえも感じられて、それは、わたしには、叙情的であると思える
   のだ。

そしてもちろんUzumaki会員にしてUzumakibPの元気おばさんであり該博な知識を駆使する鋭い論客であり、お茶目なオネエサンであり顧問格といったところでもある。

そのチャップリンおばさんは野菜市の日も、ちゃんと現れて、ず〜〜っと会場にはいた。だが、写真には写っていない。
ほとんど、屋内のホールのホワイエで、変わりばんこにスタッフに料理談義を喋り捲っていたのであり、わたしが写真を撮ったときにも、外にいなかったのである。

なので、4月22日Uzumaki・Umeh塾梅料理教室のときの1ショット。
P1140402.JPG
この写真では、年齢はもちろん、何者かも、不明である。
むしろアヤシイかもしれない(^^ゞ
そこで、本業(?)の姿を1ショット。

P1130272.JPG
1月30日、の料理教室のショットである。
スタッフにてきぱきと指示を出しながら、黙々と下準備に余念のない様子は凛とした厳しささえ感じさせる。

そろそろ、本題に入ろう。
チャップリンおばさんはこの日、大量の野菜を買い込んだ。
わたしの「重かったら、車で運びますよ〜〜。(たぶん)家、近いですから〜〜」と言う甘言に乗ったのである。
スーパーの大きな買い物袋にして概ね4袋ほど、キャベツに蕪に、レタス3玉、バジルにねぎに、ふきにトマトに…、といった具合に当日の善商品を網羅するほど買ってくれた。

※当日の野菜の写真なし。
チャップリンおばさんの写真も取り忘れていた。
(~_~;)
なので、少し前置きでカバーしておいた、のだけれど…。

     ※     ※     ※

野菜市を終え、片付けをおわり、住所を頼りにチャップリンおばさん宅へうかがった。(そこは、なんと我が家から、あるいても3分ほどのびっくりするほどのご近所だった)
玄関前に車を停めて、野菜を届けると、わたしに持たせようとわざわざ料理を作っていてくれた。

P1140799.JPGP1140800.JPG
左は山芋の、たぶん「バナナ味噌和え」。前回の野菜市のときに作ってきてくれてみなに振舞ってくれたもの、のはず。

右はヤーコンのさわやかな、たぶん梅酢漬け。サクサクカリカリと食感もよく独特のさわやかな味わいが美味しい。

P1140798.JPG
新鮮ないわしを少しマリネしたか何かして(スミマセン)焼いたもの。身がしっかり、ほっくりしていて旨みが増す。

P1140915.JPG
そして、いわしはこのケチャップでね、とお奨めのケチャップまで…。
そうか、焼き魚もこの人はケチャップで食べる、チャップリンおばさんだったのだった。

P1140797.JPG
帰って、早速「試食」と称して、いただきものを広げて食べて見た。
臭みのまったくない、爽やかないわしに、お奨めの、塩味もうすくほぼトマトのうまみだけのようなケチャップが良く合う。
結局、バクバク食べて、食べつくしてしまった。

テマヒマかかっている、野菜お届けのご褒美、美味しくいただきました。ごちそうさまでした。
(次も、野菜届けますからね〜〜(^^♪)

     ※     ※     ※


話の都合上センセイはずっと奥にこもっていたかのように書いたが、それはわたしのウソである。
現にチャップリンおばさんのブログには、キャベツを手に持って、大人気なくはしゃぐわたしと矢野さんの写真や、宮前平の社会就労センター「セルプ 宮前こばと」支援スタッフの越光さんが、トレーニングを兼ねた袋詰め作業用の野菜を大量に買いに来たところがちゃんと載っている。
はは、は〜〜〜、である。
posted by foody at 12:25 | Comment(1) | TrackBack(0) | おいしいもの

野菜も売るが話もはずむ♪Uzumakiのかわさき育ち野菜市@すくらむ21(溝口)

2010年05月26日

収穫の後は販売。
前日収穫したキャベツやトマトや胡瓜を積んで7時半出発。
5月20日木曜日、毎月第3木曜日に溝口のすくらむ21で開催されている「かわさき育ち野菜市」の日だ。

地元の農家が手塩にかけた地植えの新鮮な野菜などを、市場価格より割安に提供する。
といってもリタイア組の多い市民団体Uzumakiでは、
当日収穫当日デリバリの三崎八百辰のようには行かず、
前日の午後、ゆるゆると(笑)収穫することが多いのだが、
それでも(3日間もかかる)一般流通ルートを通る野菜よりははるかに新鮮。
葉もしゃんとしており、味わいも香りも相当残る。(モノによって差はあるのだが)

去年5月から始まり、今月で2年目に突入して、心待ちにしてくれたり、まとめ買いをしてくれたりするお馴染みさんができてきた。

わたしは去年の確か11月からだったっけ。早いものだな〜。

     ※     ※     ※

P1140775.JPG
前日とはうって変わって、雨模様。
ただでさえ、買い物困難な高齢の方はこんな日は出かけにくい。
9時過ぎのはじめのピークのお客様が去ったあと、
10時を過ぎるとヒマになってしまった。

P1140774.JPG
「御大」高山さんは、お疲れ気味?手持ち無沙汰?どっかと腰を下ろしてしまった。

P1140784.JPG
手が空くと、食べ物大好きな会員同士、内輪で食べ物談義があちこち始まって、にぎやかなこと。

外に回って野菜を見ていた横浜・舞岡のふるさと村の金子ファームの当主にして梅のスペシャリスト金子さんと、納豆と豆の大家・宮前区の岡田さんの、ハイレベルな「大豆トーク」が始まった。

その横では、Uzumakiを、生産者、流通者、市民をも巻き込んだ文字通りの「渦巻」に育てようと日々走るように忙しい代表の山本さんと、元発電設備設計者のUzumakiのITとクリエイテイブ担当の水山さんが話に熱が入る。

岡田さんの向こうでは副代表の中村さんと山田さんが・・・あれ・・・写ってないm(__)m

という具合にお客さまがいようといまいと賑やかなのである(^^ゞ

P1140786.JPG
こちらは金子ファーム代表の金子さん。
この日は自ら現場視察と交流を兼ねてやってきてくれた。
ありがとうございます。

P1140777.JPG
こちらは、昨日の雨の中収穫した宮前区野川・鈴木さんのキャベツとトマト。昨日は青みが多かったトマトはすでに熟した赤に変わっている。

ダンボールの切れ端に手書きのプライスカードは、水山さんの手作り。人柄が伝わる、あたたかい感じのプライスカードだ。

P1140779.JPG
高津区子母口・森養鶏場(鶏糞肥料を使った有機農法で、野菜もたくさん作っている)の早くもでき始めた長ネギと小松菜だ。

P1140781.JPG
こちらは、先日ピザパーティでお邪魔した宮前区平・小泉農園の元気いっぱいのレタスと、バジル、ローズマリー。

P1140783.JPG
入り口側へ回ると、金子ファームの梅と梅製品類が並んでいる。

金子・岡田の大豆トークはテンション高くまだまだ続いている(^^ゞ
ほかのメンバーは、移動しつつ、相手を替えてトークしつつ、道具の整理など…やっぱり賑やか。

P1140789 2.jpg
小降りになると、三々五々、お馴染みさんや、遠くからわざわざのお客さんがやってくる。

さっきは写っていなかった副代表の「しっかりもの」+調理師の中村さんと、「しっかりもの+元気もの」の山田さん(この二人はいつも仲良し)が、毎回来てくれる仲良しのおばあちゃんと話し込む。これも大事な仕事だ。おばあちゃんは話好きで、「ここへ話しをしに来るのが楽しみ」といってくれるからだ。
新鮮な野菜とともに、話し相手をも求めて来てもらえる、のは我が意を得たり、というところ。
市民団体Uzumakiは新鮮で安い地元の安全な野菜を売るだけでなく、
話もはずむのである。


向こうの人も、その向こうの黄色いジャケットの人もお馴染みになった仲良しさんだ。いつも「できる限りたくさん」買ってくれる。

かくて、出足が心配された野菜市だったが2時前にほぼ完売で終了。
めでたしめでたし、である。





かわさきそだち野菜収穫@宮前区の鈴木さんの畑その2 霜にも負けず弱虫胡瓜とトマトを労わる

2010年05月24日

P1140760.JPG
ハウスの中の胡瓜。
胡瓜は、サラダや酢の物などでもっとも食べられる野菜の一つだ。
ただし、極端に弱い。暑さにも寒さにも、風にも極端に弱い。
弱虫なのである。
弱虫なので、労わって育てねばならない。

気温が20度を越えると発芽し生育する。
春先は、気候温暖な南関東武蔵野台地でもハウスが必須だ。
また、風に弱い。とても弱い。
ハウスの中でも苗のころから、支柱を立てる。
いやはや手間のかかるやつである。

手間のかかるやつほどかわいい、のは人間と同じだ。
その胡瓜が今年は、霜にやられた。
ハウスの中、2〜3割ほどであろうか、霜にあたってしまった葉が白くかれてしまっている。

鈴木七五郎さんは「今年はトマトも胡瓜もダメだよ〜」とそれはそれは、明るく(もちろん明るく!)いった後、しばし、それはそれは悔しそうな顔をして、「天気には勝てねえヨ〜〜〜」と長嘆息した。

それでも5月に入ってからの良い天気で、労わられたかわいい胡瓜は何とか勢いを持ち直している。平年比ちょっとの減、くらいで行けるよ、きっと。
黙々と、胡瓜50本あまりを収穫させてもらった。

P1140763.JPG
トマトのハウス。写真では見えにくいが、やはり枯れた葉が目立つ。
こちらも5月からは持ち直している。

P1140762.JPG
こちらはすでにあらかた収穫後で、20kg程を予定していたが、7kg確保がやっとだった。

トマトは果実を傷めないよう丁寧に手で支え、はさみで茎を切り取る。その後、もう一度果実の茎をごく短く切り取る。
残った茎がほかの果実を傷つけないように、との配慮である。

このくらい色づいたところで収穫すると、果肉がしっかりし、料理するときに崩れない。
一日おけば急速に熟して、明日売るころには、すっかり赤くなっていることだろう。
熟して、しかも果肉のしっかりしたトマト、確保!

そのほかに良く育った蕪15把分、この時期あまり生育の良くない地植え大根の中から探し回って4本を確保。
激しく降り出した雨の中、黙々とねぎの手入れをする七五郎さんに挨拶し、なかなかスナップえんどうの収穫をやめない高山さんの手を引っ張るようにして、帰途に着いたのであった。

帰路の車中で、高山さんはおもむろにキャンディを取り出し、「畑の後には飴がなめたくなるんだよネ〜」とわたしにもくれた。
雨に濡れた体に、柔らかな甘みが沁みこむように心地よかった。

なんとなくうれしく、誰かにありがとうと、言いたい気持ちになった…ような気がした。

かわさきそだち野菜収穫@宮前区の鈴木さんの畑その1 キャベツ畑とジャガイモ畑とマルクス

2010年05月23日

5月19日、宮前区野川の鈴木さんの畑で明日・5月20日の「かわさきそだち野菜市」のための野菜収穫。

12時過ぎ、Uzumaki最長老の(失礼m(__)m)高山さんをピックアップして、畑へ。
もう慣れ親しんだ道だ。

P1140755.JPG
畑の全景。
この畑ももう何回も通って、だんだん愛着が出てくる。
畑は一町には満たない程だが、広々としている、
左側にはトマトのハウスが2棟。その奥にキャベツとジャガイモが植わっている。
中央は入り口付近が作業場所になっていて、作業後はいつも綺麗に掃き清めるように片付けられている。中央の段の手前はキャベツが少し。その奥はまだ植えたばかりの長ネギが拡がり、更にその奥にはレタスなど葉物類が育ってきた。
右側のハウスは、いまはほぼ胡瓜がいっぱい。その奥にはスナップエンドウ、大根、更には植えたばかりのナスが1反ほど拡がり、奥のほうには蕪などが育っている。
それぞれ膨大な作業が、手間がかかっている。人間も、人間を受け止める自然も偉大だ。

到着したが、畑は無人。
この日は、午後から降り出して、夜には本格的な降雨という予報だったが、到着時点で空は高曇りで明るいのに、すでにぽつぽつ降り出した。
これは大変と、大急ぎで収穫開始だ。

P1140756.JPG
畑の、むかって左のハウス(これはトマトのハウスだ)の奥、の手前半分ほどに4月に植えたキャベツが勢いよく育っている。
(4月14日に行った時には、ここに「東京べか菜」が植わっていた)

P1140757.JPG
4月の異常気象のせいか、キャベツの結球がやや弱い。
勢いは良いが、葉がどんどん開いていってしまう。
(レタスもそうだった)
価格も相当下がってはきたが、ピーク時は一玉300円以上していた。野菜市で売るからには品質の良いものを探し、農家にもメリットのある価格で買い入れ、購入者にも市場価格より割安で提供したい。しなければならないのだ、と思っている。
雨が降る前に、と大急ぎでキャベツ畑の中を走るようにLLクラスを探し回った。LLクラスのキャベツ25個確保に成功だ(^^ゞ
(毎回買いに来てくれる人たちの顔が、ふと浮かんだりする)

P1140758.JPG
キャベツ畑の段の奥のほうはほぼ半分が広大なジャガイモ畑になっている。

P1140759.JPG
やはり、先月はまだ芽を出したばかりだったジャガイモが、今月はもう成長して、しっかり定植し、いっせいに花をつけ始めた。
季節の運行とともに、「自然」の営みもまた進んでゆく。

人間は、自然の一員でありながら同時に、自然からは独立した別のもののようにこの自然に働きかけて、自然を自分の生命の中に、肉体の中に取り入れて生きる。そしてそのことによって、同時に自然の一員として自然に制約されながら生きて、最後には、他の有機物に還元されて大きな自然の中で循環する。

キャベツやジャガイモを見ながら、内外にわたる争闘に傷ついたマルクスの私事、その中で、すでに20代に胚胎していたであろうマルクスの自然哲学を考えた。
人間の生活の根源は、したがって、思考の根源でもあったのだ、と。

小泉農園@宮前区で畑のピザパーティ2 畑編

2010年05月21日

パーティの最中に、酔い覚まし(^^ゞも兼ねて、畑を一回り。
来週(その時点ではそうだったが、すでに5月20日に実施)の「かわさきそだち野菜市」の下見である。
P1140669.JPG

小泉農園の畑は西と北を小高い丘に囲まれ、強風をしのぐ。
南と西は市街に接するが、ほぼハウスで周囲を目隠ししている。
小径を抜けると、突然、目の前に現れる、住宅地の中の一町歩(1ha=10,000u)の畑は広大。印象ではもっと広そう。
別世界にトリップしたような錯覚を覚える。
いやいや、土地が露出している農地の部分が「別世界」なのではなく、土地を覆って立ち上がる都市のほうが、幻想的な「異界」なのである。

土は畑の部分はやや赤みが強い。客土したものだろう。よく手入れされてやわらか。

広大な畑に延々と連なるレタスの畝。
葉は力強く漲っており、水分も甘みも強いが、今年はキャベツ同様結球が弱い。
P1140670.JPG
葉は育つと、すぐに開いてしまい、堅い部分が多くなる。
4月の寒冷のせいだろう。

P1140676.JPG
レタスの隣には、蕪の列。
蕪は古代から栽培され(持統天皇が栽培を奨励したという)、春の七草の「すずな」は蕪の葉である。また古代中国では春は苗、夏は心、秋は茎、冬は根を食べる通年万能野菜である。
市販する際は、運搬のため大半の葉を落とすことが多い。Uzumakiでは、もちろんできるだけ多くの葉をつけた状態で売る。

ほかに、細ねぎ(九条ねぎ)、バジルやローズマリーなどのハーブ類、いちご園のいちごがもしも残っているようなら、とお願いした。

     ※     ※     ※

小泉農園
〒216-0022 川崎市宮前区平6-8-15
問い合わせп@090-6517-2828


ブログ再開・最近読んだ本Aデリダ以後の苦悩〜自由と安全をめぐるジグムント・バウマンの心情と論理

2010年05月19日

コミュニティ.jpg100424アイデンテティ.jpg
ジグムント・バウマン著奥井智之訳『コミュニティ 安全と自由の戦場(COMMUNITY:SEEKING SAFTY IN AN INSECURE WORLD』筑摩書房2008年1月10日第1刷2009年1月25日第3刷2600円+税・原著2001年
ジグムント・バウマン著伊藤茂訳『アイデンテティ』日本経済評論社2007年7月5日初版第1刷2009年9月10日第2刷2400円+税・原著2004年

デリダ以後の存在論
バウマンは「デリダ以後」の、思想展開の中で主要な人物とされ、1925年生まれという高齢(吉本隆明より一歳年下!)でありながら2001年以降も活発な議論を展開している。社会学の第一人者ともされる。
「コミュニティ」では、自由を求めながら、不安にさいなまれるという、人間の個人性と共同性との「本質的な逆立」にかかわって共同体を呪詛したり、絶対化したりするアンヴィヴァレントな、あるいは引き裂かれた感情を持たざるを得ない存在の仕方を「タンタロスの苦悩」と言う比喩を使って語りだす。
壮麗な論理体系の構築と言うより、驚くべき論理の精緻化を通してついに濃密な情感にいたるというような、西欧の学の一つの帰結がここにあるだろうか。

自由と不安の永遠の「戦場」
ヘーゲルの「自己意識の自由」=「絶対知」に代表される「近代市場社会」の個人志向、人間主義は、グローバリズムの時代を経て今日、共同体的なもの(共同体主義=コミュニタリアニズムなどとして変貌しつつあるところの新たな共同体的なるもの)との戦いに疲れ、ほぼ敗れ去ろうとする戦士のようでもあるか。しかしながら、人間に、もともと内在する「自由の戦士」は無論、滅びることはないのであって、どうあっても共同体的なもの、との共存を図らねばならないものだろう。
それは永遠に訪れない和解を夢見る苦悩に満ちた戦士の心情にいたるのであり、近づいて手を伸ばすたびに水も食物もまた遠ざかってしまうタンタロスの苦悩であり、「目指していたゴールに届きそうな時にほんとはまだ遠いこと」に気付いてしまう現代人の苦悩でもあるだろう。

支配共同体は戦略的に撤退するか
「固体の近代(市場社会前期=産業資本主義形成期)」にあっては伝統的共同体の論理がパプティノコン(刑務所の集中監視システム)型組織として転化・転用されたが、「液状化」の時代(=リキッド・モダニティ=市場社会後期の後半=消費資本主義化期)には市場社会の成功者は自分たちのコミュニティに閉じこもろうとし、彼らによる支配共同体は「関与(監視)」ではなく「撤退」を戦略とするという。
ここにはナチスドイツの時代を経てきた人の、つまりヨーロッパ後期近代の悲劇の、傷跡が暗い影を落としているかもしれない。バウマンがいうように、消費資本主義期には、市民社会はその奥底まで「市場化」されてしまい、市民は「夢見て」いたように個人化され「自立」を強いられるが、それだけでなく古いつながりが消滅した後、新しい繋がりがないために、「自律的」に孤立し分断化したのである
逆に残存していた前近代性は一掃されてしまった。
それは、原爆による、ホロコーストによる、破滅の後の一木一草もない廃墟のような光景でもあろうか。原爆もホロコーストも「近代=市場原理社会」が必然的に持つ凶器性の象徴として、人間をインスパイアし、警告を発してきたであろう、か。
支配共同体は、戦略的に撤退したのではなく、支配共同体が崩壊するほど進行した市場社会化によって成功者たちも分断され孤立して行くことになり、「自律」的に撤退を余儀なくされたのである、というべきではなかろうか。

永遠の戦場から「人間性の共有」へ
バウマンは永遠の「戦場」に立つ人間の苦悩を精密に描きながら、その引き裂かれた感情を「温かいサークル」主義(カント『判断力批判』における「美的コミュニティ」=一時的、部分的なコミュニティ)に逃げ込むことでなだめようとしているという。
またカルチュラルスタデイズ(私はよく知ってはいないが)など文化左翼の多文化主義には、「差異の承認」はすなわち「無関心」につながるとして批判し、「人間性の共有」を通じて、「権利上の個別性」としての身分と、「事実上の個別性」を両方とも獲得することを目指さねばならないと結論付ける。

ジグムント・バウマンの議論は精緻を極め、要約するとすべてが脱落するというような豊かなディテールを持っている。十分理解できない用語や言い回しも少なくない。

わたしには、彼の結論的な提案がもう一つ明晰でないような気がする。が、それはわたしの理解が足りないためであるかもしれないことを注記しておかねばならない。

     ※     ※     ※

ジグムント・バウマン著奥井智之訳『コミュニティ 安全と自由の戦場』筑摩書房2600円+税2008年1月10日第1刷 2600円+税、原本2001年“COMMUNITY:SEEKING SAFETY IN AN INSECURE WORLD”

目次

序章 ようこそ、捉えどころのないコミュニティへ  7
第1章 タンタロスの苦悩  14
 自由と安心の二律背反、という人間の宿命。
第2章 引き抜いて、植えつける  15
 農村から都市へ、地域業から企業へ、ひとを移動させる近代化プロセスをコミュニティから市場社会への「植え替え」と比喩的に捉える
第3章 撤退の時代――大転換第二段  57
第4章 成功者の離脱  71
 消費・金融資本主義=グローバリズム時代の成功者のコスモポリタン
 としての本質と、コミュナリズムとの2元対立
第5章 コミュナリズムの二つの源泉  83
 カルチュラルレフトのコスモポリタンエリートとしての本質。「文化
 左翼」(リチャード・ローティ)は、金銭についてよりもスティグマ
 (差別や偏見の原因となる特徴)について考察し、「自由」と「安
 全」を二つながら損なわない夢想の「コミュニテイ」に逃げ込む。そ
 れは「同一性の(部分の)コミュニティ」や偶像や権威を中心とする
 「美的コミュニティ」であって、現実に基盤を持たず、一時的である。
第6章 承認を受ける権利、再配分を受ける権利  104
 近代は、個人が「幸福」を求める権利を宣言したが、それは再配分と
 承認をともに、含むものであった。現代(リキッドモダニティ)では
 再配分の要求が衰退し、「差異」の尊重の要求に置き換えられてい
 る。その結果不平等は際限なく拡大している。
第7章 多文化主義へ  123
第8章 はきだめ――ゲットー  151
第9章 多文化の共生か、人間性の共有か 170
第10章 ケーキも食べればなくなる  197
原注  206
訳者あとがき  211
索引  213

小泉農園@宮前区で畑のピザパーティ1

2010年05月17日

5月14日、快晴の日、川崎・宮前区の父・子・孫の3世代で農業を営む小泉農園でピザパーティが開かれ、食の安心・安全のための市民グループUzumaki代表の山本さん、メンバーの矢野さんとともに参加した。
小泉農園は、農業を専業で(第6次産業化しつつ)営む農家で、約1.5haほどの畑地を耕作している。孫の博司さんの「わがままいちご」はイチゴ園として営業し、減農薬栽培のこだわりのレタス・トマト・蕪など野菜類を生協・全農販売所ほか多チャンネルで販売、また生産物を使ったハーブソルト・ハーブビネガー・ハーブティを「ミント工房」として製造販売、さらには「シャンドフレーズ」として焼き菓子を製造販売すると言うマルチチャンネル・マルチデイメンションぶりなのである。
べにほっぺ.JPG
P1140030.JPG
P1140023.JPG

Uzumakiでは、溝の口駅近くのすくらむ21(男女共同参画センター)で毎月第3木曜に開催する「かわさきそだち野菜市」で小泉農園の苺や野菜を販売する取り組みを始めたところだ。

いってみると苺の大温室と野菜畑の間に、すでに人が集まり、パーティが始まっている。
川崎市が窓口になっている援農ボランティア「達人クラブ」の面々20名と川崎市から2名、Uzumakiから3名、そして小泉家も含めて30人ほどがわいわいやっている。
P1140653.JPG

なぜか畑の真ん中に(畑地の真ん中ではあるが、いってみるとハウスと路地の「すきま」にある)作られた完全手作りのピザ釜には、もちろん一から手作りのピザが焼けている。
P1140655.JPG

畑のアスパラを乗せたピザは、「孫」のお嫁さんが手早く切り分けて次々にテーブルへ。焼いても焼いても、あっという間に消えてゆく。
P1140658.JPG

牛肉には、畑のレタス(口にいれると水分がはじけて、ほんのり甘い)
がよく合う。
P1140679.JPG
P1140661.JPG

さらにはおじいちゃん手作りの大量の赤飯には、なんと生ビールが付いてくる!
P1140652.JPG

暖かい春の一日を畑を楽しみながら、イヤッというほど飲ませていただきました(*^^)v

     ※     ※     ※
小泉農園
〒216-0022 川崎市宮前区平6-8-15
問い合わせп@090-6517-2828

ブログ再開・最近読んだ本@存在はそのように世界と出会うか〜竹田青嗣のエロスの世界像とマルクスと吉本隆明とソシュールとニーチェ

2010年05月16日

ブログ再開である。
ちょっと多忙だったのと、宮本太郎『生活保障』や広井良典『コミュニティを問い直す』を実践的な契機の中で確証していくための、次のステップが見出せずにいたからだ。

竹田青嗣
『エロスの世界像』1997年3月19日第1刷2002年6月20日第6刷講談社学術文庫(原本1993年11月三省堂
P1100954.JPG

1947年生まれの竹田青嗣は、吉本隆明の強い影響下に「世界という背理」や「在日という根拠」などの文芸評論家として出発した。
たぶん1965年に早稲田入学、66年学館闘争の世代であり、荒岱介や呉智英とほぼ同世代、たぶん一歳年上、だろう。
わたしはこれまで、無論良い読者ではなかったが、わたしなどの7年上にあたるこの人は、70年以降の「檻」化する早稲田(=日本産業資本主義完成期〜消費資本主義移行期)の状況への対処や、吉本隆明を受容しつつ展開してゆく思考の行方として、という点やでわたしには気になる存在だ。

     ※     ※     ※

裏表紙には「世界をエロス的に経験された秩序と捉える<エロス的世界像>の観点は、ニーチェのプラトニズム批判に始まりフッサール、ハイデッガー、バタイユへと受け継がれた。著者はそこにこそ、実存としての人間存在が生と世界了解するための原理を見出すことができると解く。古典的哲学や自然科学が合理的に認識しうるとしてきた世界の幻想性を論証、現代哲学に新たなパラダイムを拓く画期的<エロス論>」とある。3月20日ごろ読了。
共同体や社会をつくって相互依存して、「コミュニティ」の中で保護されて生きながら、一方、自分らしさや自由や自己確認、さらには自己実現を欲求せずにはいられない人間の深々とした亀裂の根源はいったいどのようなものだろうか、「存在」の原理的な深みに立ちもどって、考えてみたかった。

    ※     ※     ※


経験としての世界―エロス的原理による個別世界の体験と共通了解の形成(認識)

人間は、この世界を一つの世界のように認識し論じ、破滅させようとしたり、自分の味方につけようとしたりする。それは「この世界」が客観的に存在するものとして先に存在し、後で「わたし(たち)」が生まれてきたからだと考えられる。この考えは、わたし(たち)にとって自然な感じがする。だから近代科学は「客観的世界」を一つのものさし(コード)によってコード化(記号化)してきた、であろう。

  ヘーゲルは人間の世界体験を「意識」がたどる「知」的な体系だと
  考えた。この考え方は、近代的な世界像の認識の基本の視線だった
  と言える。わたしがこの論考で試みたいのは、この近代的な世界像
  によって覆われてきた人間と世界とのエロス的関係の原理を明らか
  にすることである。
    ――P19

つまり、世界は「わたし(たち)」が認識することによって、用語を代えれば、知覚し体験することによって世界としてわたし(たち)に認識され、存在するものである。
すなわち感性的主体としてのわたしたちによって経験されたり行為されたりするものとして、個別的にのみ存在するものである。
しかし、人間が生きていくためには「複数者」として存在し、社会や共同体を形作らねばならず、そのためには共通の了解事項を持たねばならない。大切なのはこの了解事項は「共通了解事項」であるに過ぎないのであって、「正しい」了解事項、「正しい」客観的秩序=価値ではないということである。

人間の共同幻想の失敗の歴史とエロス原理

人間のこれまでの歴史の中では、いったん「共通了解事項」が成立すると、それはしばしば、いやほとんどの場合、「正しい秩序」として又は「価値あるもの」として流通するようになってきた。
すなわち「共同幻想」である。

それは個人が生きるための、あるいは共同体が存続するために形成された共同体の了解事項が、近代には「実在する先験的価値」であるかのように「国民国家」として国民に従属と犠牲を強いても守るべき「価値」の体系=国家主義に転倒していったのと同じである。

または、「貨幣」が交換のための媒介物という「道具」としてのみ共通了解されるところに貨幣の根拠があるにもかかわらず、いったん貨幣として成立するや、「貨幣そのものに価値がある」というように転倒され、ついには貨幣(価値)が貨幣(価値)を生むという、幻想的で破滅的な金融資本主義にまで転化したのと同じである。

人間がこんなにも失敗を重ねてきた理由は、人間の基本的な世界体験の原理、精神のエネルギーの原理(たとえば、ニーチェの「力への意思」や竹田青嗣の「エロス的原理」)のなかにもともと、共通了解への検証の仕組み、または固体の生存原理へと立ち返る「反省能力」が原理的に欠缺(けんけつ)しているからなのではないか、とも思われる。

※カール・マルクスは、すでにこちらでも触れたように
「自然が人間の<非有機的(=意思のない)身体(人間の一部=人間的自然=人間にとって有用なもの=「価値」)>となるところに人間の本質があるといっている。
そして(エピクロス自然哲学における)、霊魂によって「身体がくまなく囲まれている」という概念は人間が自然から逃れられない〜自然の秩序の中でしか生きられない存在であることを示している。

吉本隆明は、これを思想の根源と捉え、次のように鮮やかに整理してわがものとしていた。 
 
  全自然を、じぶんの<非有機的肉体>(自然の人間化)となしうる
  という人間だけが持つようになった特性は、逆に、全人間を、自然
  の<有機的自然>たらしめるという反作用なしには不可能であり、こ
  の全自然と全人間との絡み合いをマルクスは<自
  然>哲学のカテゴリーで<疎外>または<自己疎外>とかんがえたので
  ある。
   (吉本隆明「カールマルクス」『マルクス紀行』)

ことばと社会の不可能性への視線―ソシュールとともに

さらには最も根源的な転倒は、言語であろうか。
この転倒こそは、巨大な闇のように、あるいは自然界のようにもっとも複雑怪奇、錯綜するものであるかもしれない…。

ことばは人間の物理的な、生理的な、身体的な、精神的な根源的な力が「ことば」という「状態」になるようなときに行われる活動であって、そのつど生み出され消えてゆく実在しないもの、である。

しかし人間は共通了解=「道具」としての言葉を生み出して、初めて「共同」化し得るが、つまり類として生存可能になるが、そのときにほんらい複雑で多様な人間の活動である「発語」活動からたくさんのものが排除され削ぎ落とされねばならない。
吉本用語では「自己表出」や「指示表出」が絡み合った複雑怪奇なものであることばが、いったん共通了解=「道具」となると、実在するもの(文字のように)のようにみなされる。人間はこの単純化された書かれた文字をめぐって、それを品詞に分けたりして分析対象にしたり、「正しい日本語」があるかのような議論をしたり、あるは再びそれを生きた人間的な感性の複雑怪奇な活動を再現するものとして、豊かに膨らませようとしたり、する。
ソシュールの根本的懐疑は、このことばに対する、つまりことばを使って「共同」する人間社会の存在構造への懐疑であっただろう。
偉大で根源的な言語学者ソシュールは、ほんらい「状態」におけるパロール(音声)であって、そのつど消滅するものを歴史的に継続するもののように扱い、または実在しない言語を実在するかのように扱う言語学の「虚構性」または「欺瞞性」の前に、ほとんどなすすべなく失語し沈黙してしまった、であろう。

ことばの可能性のなかには豊かな不可能性があり、社会の可能性の中にもまた豊かな不可能性が埋め込まれているといわねばならない。

ニーチェの「力への意思」論

竹田青嗣は冒頭、エロス原理へといたった道筋をニーチェに依拠して以下のように整理している。

「世界を認識すること」ではなく、「価値評価」することが、この世界を体験するという原理である。この観点はソクラテス=プラトン、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、バタイユと受け継がれてきたが、ニーチェにおいて、「権力への意思」による近代理性主義客観主義的認識からの根本的な視線変更として激しく提起されたものだ。

ニーチェによる「視線変更」の内容は以下のようである。
  1 「客観存在」があり、それを「認識」するのではなく、存在の
  カオスを「生の力」が価値評価として解釈する。
  2 したがって客観的「真理」というものではなく、他を圧倒し 
  た、強力な、公認された、権力を持った、勝利した、「価値評価」
  が「真理」とされる。
  3 客観存在、正確な認識、「正しい」主観、真理、真理をつかさ
  どる神、本当の世界といった伝統哲学(近代主義)のパラダイムは
  没落しなければならない。
  4 新しい哲学のパラダイムは生命がその力の保存と成長のために
  発動する「力」の構造である。

しかし、4の部分は現在までほとんど手がつけられていない。この部分のポイントは「「世界とは<力>によって解釈された構造である」といういい方を、「世界とはエロス的に経験された世界である」という言い方に代えることにある」―P13「エロス的体験と世界」

以下、自我論、恋愛論、身体論、時間論などがそれぞれ展開されるのだが、部分はそれぞれに興味深いが、果たして「新しい哲学のパラダイム」を原理的に再構成するにいたったかはコメントしづらい。
竹田はその後フッサール・へーゲルの研究者としての著作が多く、近年は言語論的な視線へと展開しているように思われる。
「エロス的」という用語はあまり使われないようだが…。

     ※     ※     ※

目次
序 エロス的体験と世界  11
認識論的デイスクール  21
近代的“心身二元論”  38
エロス論的デイスクール  56
「死」の不安の意味  75
原初的エロス  84
ロマン的世界の成立 92
「世界」の結晶作用  110
自我  119
恋愛  141
エロティシズム  163
幻想的身体  193
幻想的世界  213
時間について  223

     ※     ※     ※

P1120677.JPG名称未設定 1.jpgTop.jpg
同じ著者の『竹田青嗣コレクション1 エロスの現象学』海鳥社1996年6月10日、『言語的思考へ 脱構築と現象学』径書房2001年12月15日第1刷2200円+税、『近代哲学再考 「ほんとう」とは何か-自由論』径書房2004年1月10日第1刷。

P1130518.JPG
岸田秀・竹田青嗣『物語論批判 世界-欲望-エロス 岸田秀コレクション』1992年10月17日第1刷1993年10月28日第2刷2200円+税→525円、

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。