2009総選挙 歴史的な日に 支配共同体=利益分配システムの崩壊から、新しい共生のための市民共同体へ

2009年08月31日

8月30P1100389.JPG日の総選挙の結果、自公政権は予想通り崩壊し、民主党が絶対多数を獲得した。

もちろん、民主党が選ばれたわけではない。比較的あたらしいものが、避難先として選ばれたのに過ぎない。

しかし、予想通りのこの結果が、結果として現前したことには意義深いものがある。
自民党=日本近代の支配共同体の政治セクター(幻想の共同性)は、産業構造の変化に伴って、支配共同体=国家(官僚)主導の利益分配システムが弱体化したことで、もはや恒常的に多数派を形成できなくなった。
大企業は収益源を国家の枠を超えた国際的な経済システムに依存するようになり、農業はもともと歴史上一度も保護も育成もされたことがなく国家から疎外されて収奪の対象でしかなかったのに支配共同体の一員であるかのように錯覚していたが、ようやく夢から覚めた。商業やサービス業や中小企業は連鎖的に大企業頼みの収益構造から排除された。
都市の(いまや農村でもそうなのだが…もっとも「農村」そのものが消滅しそうなのだが)「故郷喪失者」は「収益構造」からも排除され、「故郷」が幻想でしかないことを身に沁みて味わっているであろう。
これにより日本における封建遺制の残滓は、幻想過程たる政治セクターにおいても明確に一掃されたといえる。

しかし、前近代を引きずった近代支配共同体に換わる新しい社会の運営秩序は(または運動秩序)は、問題の根深さが、あまりに根深く根源的なために、「資本」のようには明快な形や権力や価値形態を現出しないであろう。
それは、逆に、形なく明快でないようなものとして、存在するのが、仕方である。

新しい共生共同体へ

これからは消費するものとしてしか存在し得ない大衆化された市民が、市民社会を基盤として自立的に生産と流通を確保・支援・協働し、そして利益分配をもコントロールすることが生存の基本形態になるだろう。
しかし、市民の経済基盤は脆弱であり多数の知的―準知的都市中層下層民(68年を担った人びと、以後の人びと=故郷喪失者)と、構造的に存亡の危機にあえぐ農林漁業・鉱工業を抱えている。

困難な現実を見据えるとき、このもっとも困難な場面にこそ新しい生活共同体の理念が実現され、実践されるべきであることが理解される。
この困難な社会的現実の入角にこそ困難を可能性として見据え、ごく小規模で私的な生活圏に非支配・非私有の自由な個人の自由で自立的な共同・協働生活共同体を形成してゆかなければならない。
資本が否応なく世界を統一するような運動であるならば、それは世界を解体し続けねばならないだろう。
そしてそれは、あるべき本来性=「故郷」として幻視されつつ、常に外部との協働を必要とし、そのような「協働」の場として公共的な流動的ネットワークの「場」を形成することにおいて、自己解体するようなものだ。
問題は自己解体がそのまま再生でなければならない点にあり、この困難は一回で何かを解決するというような一回的なものではなく、持続的反復的なものであり、従って永遠に提起され続けなくてはならない。

あたらしい市民=農民共同体、解体しつつ再生する農食共同体、帰還しつつ出発するための「故郷」を作り出してゆくときである、とおもう。

    ※    ※    ※

■当選者数

民主党 308
社民党  7
国民新党 3
みんなの党5

自民党 119
公明党  21

共産党  9

無所属  6

武井昭夫「武井昭夫対話集 私の戦後――運動から未来を見る」2  花田―吉本論争の事実と帰趨と倫理と、柄谷行人とすが秀実

2009年08月27日

P1100263.JPG

花田・吉本論争の話題も出てくるので、触れておこう。

  柄谷 きっかけは(記録芸術の会をめぐる問題で)つまらないと思
     うけれども吉本さんはそれを大きくしてしまって根本的な対
     立を作ったと思う。〜略〜
  すが(糸+圭) しかも、武井さんも当時からそう思っていたので
     はないかと思うんですが、花田・吉本論争なるものを冷静に
     検証すれば、論理的には花田が勝つに決まっているものだっ
     た。しかし、論理だけでは勝てないことがある。〜略〜「反
     スタ」埴谷雄高が、吉本さんの勝ちだとジャッジメントした
     こともある。しかしその時に最初吉本さんとの共著でデビュ
     ーされた武井さんが、吉本さんのほうに行かなかったという
     ことはどのようなモチーフがおありにあったからでしょう
     か。
  武井 花田さんの二つの焦点という有名な楕円論のテーゼがありま
     すね。これは組織論としてみると、対立者を一つの運動の中
     に共存させるということですね。〜略〜だから花田さんは吉
     本さんに対しても、倒すか倒されるかの敵対的な抗争という
     よりは、論理の上では厳しく対立しても、大いに討論をする
     ということを考えていたはずですけれども、少なくとも、少
     なくともはじめは。吉本さんのほうはそうは考えないで、論
     争を徹底した敵対関係にしてしまった。その結果もたらされ
     た事態に60年代の文学状況は強く影響されましたね。無論
     マイナスのほうに。
      P143〜144「U 50年代の運動空間 2.50年代文学芸術運
           動に内在した可能性」

武井の言うとおり、斜に構えた花田に対し、吉本は正面から反撃した。花田は斜に構えすぎて余計なことを書いてその部分で大きく失点していたし、吉本は花田の論旨を十分に汲み取っていなかった点もある。
しかし、きちんと読めば、この「論争」は論理を争ったのではなく、時代と政治認識についての態度すなわち倫理が争われたのだ。
「政治と文学」とか「戦争責任」とかをどこまで真摯に受けとめて、生きる倫理として内在化して考えるかという態度の争いだった。それは、「党」や「輸入思想」やの「権威」に寄りかからない思想的態度の問題であって、戦後思想の質を決定的に高めた。

埴谷雄高が「吉本の勝ち」と判定したのも、その一点においてであると思う。時代は吉本の「自己否定の契機を社会的批判に転化することで打ち出した」戦争責任論を含む思想の倫理性を、このとき要求していたのだ。花田は、優れた芸術運動家だと思うが、このときやはりどこかに「党」や「正系」の慢心があって、相撲で言えば突進してくる相手を軽くいなそうとしたが、相手は予想外に馬力があって委細かまわず突進してきて、ついには躱しきれなかったのである。
すが秀実は「論理的には花田の勝ち」というようなことをあちこちで書いているが、その根拠は「吉本は状況証拠だけで花田を転向ファシストと断定した」ということだけのように読める。だとすれば、問題の本質をまったく見誤っているとしか言いようがない。問題は花田が「転向ファシスト」であるかどうか、あったかどうかではなく、第2次大戦中の「獄中非転向者」や「獄外抵抗者」の評価の問題である。

もっとも、花田が「獄外抵抗者」を擁護したのは自分もそうであった(はずだった)から、岡本潤や壺井繁治への理解もシンパシーも深く、ある意味(花田的言説空間の同調者を守る倫理=支配共同体=党=運動、を守る意味では)当然のことだったであろう。
問題は「協力のような抵抗」が真摯になされたとして、その結果が、客観的には「協力」的部分を含むもの、または結局は「協力」としてしか機能しなかったものであった、あるいは「抵抗」としては決定的に無力であったときに、その当事者たる個人の主観的正義はいかにして、なお「自分は抵抗した」と主張しうるか、という点にある。
論理的にみて、「党」的な立場、個人的な立場からそれは誤ってはいないが、しかし「社会的」な同感ないし共感をそれは獲得できるか、という倫理の問題から言えば「協力した」といわれても仕方のないものであるだろう。すなわち「党」の倫理と「社会」の倫理の峻別が問われていたのである。
この「倫理」の問題は吉本的には「自己否定の契機を社会批判に転化」する(内面世界から現実世界に相渉る)ときの「関係の絶対性」の問題して明確に措定されていたものである。

 ※武井は本書の青木実との対談の「注」P198のなかで、「きっかけ」
  を以下のように書いている。長いがことの成り行きを当時の雰囲気
  とともに伝えているのでそのまま引用する。  
  
 岡本潤さんは文学運動の世界では『赤と黒』以来の経歴をもつ年配の
 方だったが、私の接していたかぎり、外見つっぱり型に見えて内面は
 内省心の強い方であった。吉本さんからの最初の批判に接したときに
 は激しい反発から来る反駁も試みられたが、わたしの「戦後の戦争責
 任と民主主義文学」(『現代詩』1956年三月号)などで問題が戦後の
 文学運動の在り方への検討が進む過程で、岡本さんは吉本・武井の論
 説を相当部分認める姿勢に転じた。[「詩人の対立」(『詩学』56年2
 月号)から「文学の仮構性と真実――詩人の対立U」(『新日本文
 学』56年4月号)の変化にもそれがみられたと記憶する]。しかし、戦
 時下の岡本さんには戦争に抵抗者として対処してきた一面も確かにあ
 った。そういう岡本さんの示した二面性の解明も、文学上、また政治
 上にもそれなりに大切だったように思われるが、岡本さんのきっぷの
 よさというか追及者へのあっさりした「対応」がそれをかえって妨げ
 たように、いまになってわたしにも思える。
 戦時中、文化再出発の会(機関誌『文化組織』)で協働していた花田
 (清輝)さんは、岡本さんを励ましてそうした二面性を解明するとと
 もに、真実、戦争に対する文学者の抵抗とは、ひいてはインテリゲン
 ツィアの戦争や権力との闘いとは、それが有効性を持つためには、ど
 のようにあるべきかといった問題点を抽出したかったのではないか、
 と思わないでもない。
 花田さんが問題の火付け役となった『現代詩』(新日本文学会詩部会
 機関誌)の編集長秋山清さんに話して、自分が司会役を引き受けて
 「岡本―吉本対談」を実現させた意図はそのあたりにあったのではな
 いか。
 「芸術運動の今日的課題」(『現代詩』1956年8月号)の鼎談は、先
 に述べたような岡本さんの対応もあって、花田さんの意図とはちがっ
 て、花田―吉本の直接的な対決的討論となり、花田の論述が論理的に
 吉本を圧倒した。そしてこれが、吉本の花田=ファシスト呼ばわりに
 始まる不幸な「論争」に続いていったようにわたし(武井)には思え
 る。  ――P198〜199

    ※     ※     ※

柄谷行人は「吉本以降」の思想状況のリーダー的存在として、すが(糸+圭)秀実も、いまはぱっとしなくなってきた「ポスト構造主義」を駆使する日本における代表的な文芸批評論家としてみなされているようだ。わたしは、柄谷もすがも基本的にはとても優れた書き手だと思うが、ときどきとても変な判断をするように思われる。それは花田清輝や武井昭夫が現実の政治や政治運動やについて、ときどき盲目的なほどに判断停止に陥るのによく似ているように思われる。花田や武井が外来思想であるモダニズムである「マルクス主義」(というより運動空間としての「党」)に盲てしまったように、柄谷やすがも外来のポストモダニズム(というよりポストモダニズムの日本における言説の運動空間としての「党派性」とも言うべきもの)に盲てしまっているのではないか。
ここにもまだ、現実や対象との遊離から来る観念のオートマチズムとして思想が空転しているのではないか。

わたしは、柄谷についてもすがについても、武井についても良い読者ではないので、あらゆる断定は避けねばならないが、そんな気がしてしまう。


     ※     ※     ※

■ 武井昭夫「武井昭夫対話集 私の戦後――運動から未来を見る」星雲社2004年7月31日2800円+税

目次

序に変えて 私の8月15日 9

T 私の戦後――運動から戦後を見る 聞き手 小松厚子
1 大衆運動としての全学連 16
2 戦後初期の文学運動から 37
3 運動の土壌を耕し直す作業――その困難 68
4 頽勢の挽回と統一戦線の形成―そのための提言と苦言 87

U 五〇年代の運動空間 対話者 柄谷行人 すが(糸圭)秀実
1 大衆運動としての学生運動、文学運動 114
2 五〇年代文学芸術運動に内在した可能性 138
3 六〇年代運動空間をどう見るか

V この国の「戦後責任」とは――文学者の戦争責任論を振り返って 対話者 青木実 記録 加野康一
1 「文学者の戦争責任」論とはなんだったのか 180
2 戦争責任・戦後補償をめぐる日本とドイツ 200

W 戦後史問答――現代の危機とは何か 聞き手 土松克典 広野省三
1 草の根ファシズムの再来とどう闘うか 227
2 これからの反戦平和運動の在り方を探る 247
3 ふたたび朝鮮と日本の関係をめぐって 267

X 拉致報道と草の根ファシズム
1 朝鮮半島をめぐる危機と日本の報道・言論 298
2 いま、戦後の60年代が問われている 318

Y 著作・座談など年譜(稿) 363

本書所収文書の掲載紙誌一覧 411
あとがき 412

武井昭夫「武井昭夫対話集 私の戦後――運動から未来を見る」1 武井昭夫の政治と文学 なぜ思想は空転するのか――

2009年08月26日

P1100263.JPG
自称「運動族」「古典的マルクス主義者」武井の戦後回想の対談集。「武井昭夫論集」の2巻にも相当することになっている。

現在的意義があるとも思えないのであるが、すが(糸+圭)秀実が「革命的なあまりに革命的な」や「1968年」で取り上げていたので、また吉本と共著の「文学者の戦争責任」の一方の書き手でもあるのに、殆どまったく読んだ事がなかったので図書館で発見したのを機に読んでみた。60年代の空気を傍証するものではあるはずだから。


武井(1927.1.29生まれ〜)は1948年設立の全学連の初代「輝ける委員長」であったし、精神史的な内在的な戦争責任論の嚆矢である『文学者の戦争責任』を吉本隆明と共著で書いている。旧制高校生として勤労動員中に敗戦を向かえ、戦後すぐに共産党に入党以来「党」や「新日本文学会」に籍をおき、それなりに重要な役割を果たした。「正系」にありながら反主流的なリーダーであり、新左翼や「近代文学」や「荒地」などの反日共勢力とも交わるという「幅の広さ」が特徴であった。逆に言えば新左翼にも通じる共産党反主流でありながら、「党」へのかたくなな信仰には疑問の余地のない「古典マルクス主義」者であった、であろう。1940〜50年代には、その「幅の広さ」が一定の役割を果たしたが60年安保以降は存在意義を喪失したということが出来ようか。
吉本転向論に言うところの、「原則論理を空転させて、思想自体を現実的な動向によってテストし、深化しようとしない」「日本の封建的劣性(懐かしい言葉だ!)との対決を回避」した宮本顕治、小林多喜二的な「非転向的『転回』」に近いように思われる。
日本共産党2度目の除名後1969年政治運動党派である「思想運動」を設立したが、基本的にはソ連北朝鮮など既成社会主義国を支持し、北朝鮮による日本人拉致事件については「共和国は拉致しただけだが、日帝は朝鮮女性を拉致した上に強姦した」と述べている。
また、2004年の発言には以下のようなものがある。

  (英国サッチャー政権1979年、アメリカ・レーガン政権1981年、日
  本・中曽根政権1982年で「新保守主義連合」とでも言うべき政治ラ
  インが国際的に形成されて)以後、この「新保守主義(ネオ・コン
  サーヴァティヴ)」(これがいましきりにいわれる「新自由主義」
  の原型にほかなりません)が、国際的にはソ連・東欧の社会主義体
  制に対して、それぞれの国内では労働者人民の既得権利にたいし
  て、猛烈な攻撃を展開していくことになるのです。以後約10年、こ
  の「新保守主義」の展開のなかで、ソ連・東欧の社会主義体制の解
  体の土壌が切り開かれ、一方、70年代後半には中南米諸国にあふれ
  た反帝民主民族革命の戦いが次々にたたきつぶされ、先進資本主義
  国の3極では労働者人民の運動が大きく後退させられていくので
  す。
     P81「T 私の戦後―運動から未来を見る 3.運動の土
        を耕しなおす作業――その困難」

勿論、レーガンは古典自由主義によって、中曽根は「統制派的」官僚主義を通じて、ともに「戦争」を通じて「資本」の支配を貫徹しようとするものであることは論を待たないが、それにしてもソ連東欧社会主義圏は守られるべき良いものだという、古典的なあまりに古典的な見解は、どうやって保存されるものだろうか。

きっと、共産主義や党は批判など思いもよらない「聖域」として保存されているのではないか。(いや批判はあるし、誤謬もあると認めていながら、どうあろうと最終的には救われるべきもの、擁護されるべきものとして、措定されているのではないか。なにか現実にはないが、本来あるべきもの、本来性としての「故郷」のようなものとして夢見られているのではないか…。「自然」を離脱したものが近代に夢見る幻視の「故郷」を、「離脱」を強いた時代への反抗という一点での共同体=「党」として夢見ているのではないか…)
それは師匠筋に当たる花田清輝がその芸術運動においてな極めて先進的で柔軟で厚みのある柔構造を内蔵していたにもかかわらず、政治思想や運動や新日文などをめぐる現実政治や政治運動においては、現前する状況に鈍感であってまさに「『原則論理』を空転させる」教条主義にとどまるような対応であったことに似ている、であろう。
個々の政治問題への対応を見てみると、その批判は救い出したいと思えるまっとうなものだが、しかし常にソ連東欧社会主義(もちろん北朝鮮社会主義も)を犯しがたい神聖なるもの、無謬ではないと言ってはいるが、それでもなお「正義」として揚言するこの無邪気さは何なのだろうか…。
もちろん、それは現実から遊離した空論的モダニズムだからなのだ。
(花田も、武井も、人として良い人で、ル・サンチマンとははじめから無縁な、典型的な優等生のような気がする)


それにしても合点がいかないのは、柄谷行人とすが(糸+圭)秀実がインタビュアーとして、武井に目一杯に媚びているところである。

      (1954年、宮本顕治の意を受けたであろう中野重治が主導
      して、当時の新日本文学花田清輝編集長を解任した件につ
      いて、武井が宮本、中野の政治主義的対応を批判したのを
      受けて)

  すが(糸+圭) あの時期に宮顕(宮本顕治共産党委員長)と論争
     すると言うのは画期的なことでしょう。
  武井 当たり前だと思っていましたよ。
  柄谷 あれは度胸だけではできないと思う。大西(巨人)さんは、
     それから二十何年かかって『神聖喜劇』を書いた。野間宏の
     『真空地帯』はだめだという批評が、この作品で証明された
     と思う。
       P156「U 50年代の運動空間 2.50年代文学芸術運動
         に内在した可能性」

なぜこんなに教条主義の武井に媚を売るのか。政治と文学(芸術)とにおいて政治の優位性を否認するのであれば武井は党を批判し離れるべきであったのだ。武井も花田もそうしなかったのは、中野重治と同じく「党」=正系へのコンプレックスから解放されることがなかったからだ。芸術や文学を依然として政治への従属から解き放つ視点を確立できなかったからなのだと言いうるだろう。

古典マルクス主義は、いわゆる史的唯物論を唱えて教条化し、かえって現実を遊離する空論に陥ったが、そのように古典マルクス主義を批判して登場した構造主義もポスト構造主義も、さらにはポスト・ポストモダンに与するものたちも、「脱構築」的読み替えの「構造」に執心するあまり現実を遊離しているように見える。

ただ、武井の茫洋とした人間的な大きさ、人のあたたかさ(中身はどうあれ)は魅力だ、ということは言っておきたい。また「注」に見られる誠実な事実訂正の努力にも注目した。(しかし、本文の誤植がちょっと目立つところで数箇所あった)

     ※     ※     ※

■ 武井昭夫「武井昭夫対話集 私の戦後――運動から未来を見る」星雲社2004年7月31日2800円+税

目次

序に変えて 私の8月15日 9

T 私の戦後――運動から戦後を見る 聞き手 小松厚子
1 大衆運動としての全学連 16
2 戦後初期の文学運動から 37
3 運動の土壌を耕し直す作業――その困難 68
4 頽勢の挽回と統一戦線の形成―そのための提言と苦言 87

U 五〇年代の運動空間 対話者 柄谷行人 すが(糸圭)秀実
1 大衆運動としての学生運動、文学運動 114
2 五〇年代文学芸術運動に内在した可能性 138
3 六〇年代運動空間をどう見るか

V この国の「戦後責任」とは――文学者の戦争責任論を振り返って 対話者 青木実 記録 加野康一
1 「文学者の戦争責任」論とはなんだったのか 180
2 戦争責任・戦後補償をめぐる日本とドイツ 200

W 戦後史問答――現代の危機とは何か 聞き手 土松克典 広野省三
1 草の根ファシズムの再来とどう闘うか 227
2 これからの反戦平和運動の在り方を探る 247
3 ふたたび朝鮮と日本の関係をめぐって 267

X 拉致報道と草の根ファシズム
1 朝鮮半島をめぐる危機と日本の報道・言論 298
2 いま、戦後の60年代が問われている 318

Y 著作・座談など年譜(稿) 363

本書所収文書の掲載紙誌一覧 411

あとがき 412


荒岱介「破天荒な人々」2 自分をあけすけに語るとは〜「恥ずかしさ」を越えて回想を読む

2009年08月21日

P1090974.JPG
本書に戻ろう。Amzon.comの本書のないよう紹介には下記のようにある。

ニューレフトが最も光り輝いた時期に、自らが滅びることをおそれず、闘いの可能性に賭け、壮絶な生き方をした叛乱世代とのインタビュー

内容的には、ほぼその通りの内容で、6人の当時の活動家と一人の盲目の医師に、あけすけなインタビューを荒氏が試みるもので、荒のあっけらかんとした聞き方はそれはそれとして心地よい。過去には対立も抗争もゲバルトさえした相手にもインタビュアーとして、冷静に自分を押さえながら、過去から現在にわたる話を引き出してゆく。政治を謀略や策略と心得ていたもの(例えば古賀暹など)には未だに口を閉ざす事情もあるようだが、個人としてかかわったものにはすでに口を閉ざすべきことなどありはしない。花園紀男の塩見批判や「やっとマルクス主義が理解できるようになった」とか「(革命は)まだ始まったばかりだ」とか「仏(さらぎ)さんには申し訳なかった」とかと頑固さとセットになったようなあけすけさは、爽快ですらある。ただごく底のほうにいまだに発語にいたらぬもの、があるか、または語るにも値しないものがよどんでいるだけだ。
荒の客観的な態度にも、結果として引き出された事象や心情にも、考えさせられることは多いが(感動したり賛成したりしているわけではない)、いまのわたしにはきちんと述べることが出来ないので、いくつか現在の問題意識に通じる事柄を拾っておく。

1  ※68年の「われわれはぁ〜、ここにぃ〜」という、語尾を延ばし
   て抑揚をつけ一語ずつ区切りながらする、独特の「全学連口調」
   のアジテーションは、62〜3年ごろ建設された明大独立社学同の
   阿部氏が、「慣れていなくて、次に何を喋るか考えねばならなか
   ったので」始めたらしいという話。
「これはアジテーターの大衆化を意味しているのですね。全共闘運動というものがそうでしょう。指導者はいなくなり、だれしもがアジテーターになれる時代の到来をそれは告げていたのかもしれませんね」(古賀暹)p115

2 「あの2.2協定(※67年2月の明大闘争でのブント=古賀暹の裏切りといわれる事件)の後も雪でしたね。残雪が残る中を、神田の明治大学の校舎の前からタクシーを拾って去っていったとき、再び、ここに学生運動の指導者として帰ってくることはないだろうと思うと同時に、今まで努力してきたことは一体なんだったのか考えさせられました。あの構図、何となく2.26事件の青年将校に似てもいますよね」(古賀暹)P129
  ※(前山)ここには、革命や思想の切実さから来る必然ではなく、
  ロマンティックな冒険物語の舞台として革命思想と運動を選び取っ
  たものがいる。ロマンチシズムは現実よりもロマン(虚構)に真実
  さを感じる心情であって必然的に自己本位のロマンを他者に強要す
  る。私たちの歴史の多くにこうした思想がかかわっていたことを、
  むしろこれを「情熱」と呼んで称揚した歴史もあることを銘記せね
  ばなるまい。ロマチシズムゆえに多くの才能が育ち、光芒をはなっ
  たのだとしても、である。

3 そしたらある日廣松さん(注 哲学者だがブントの黒幕たらんとした廣松渉)から電話がかかってきて「神保町の喫茶店に来い」という。〜略〜ワイシャツを脱ぐとサラシが巻いてあって、そこからポンと100万円。サラシから湿った100万円(笑)を出して「これすくないかもしれないが、新雑誌発刊の一部にしろ」という。(古賀暹)p130
   ※(前山)「古きよき時代」のロマンティックなエピソード。難
   解で深い切実なことを考えながら、現実の行動はかけ離れて子ど
   もじみたロマンチシズム状態を呈するというのはこのシマグニ
   の、輸入思想に身をゆだねて、政治にも経済にも社会にも自前の
   思想というものを持たなかった伝統のなせる業かもしれない。

4 なんていえばいいのかな。そう岩田さん(岩田弘)は、マルクスは「搾取」は詳しく解き明かしたけれども、「支配」は説明しなかったと言っていた。職場というところは、労働の搾取と支配が同居しているところなんだよ。〜略〜「労働の搾取」ばかりでなく「労働の支配」にも物申すのでなければ人間の解放なんて言ったってしょうがない。そういう思いがずっと昔からあった。実際工場に入って、本当にその通りだと思ったね。
でもね、今となって考えたら、さらにその先がある。今となってはこう思う。支配だから悪いとはいえぬ。いい支配と悪い支配があるのではないか。〜(望月彰)p166
   ※(前山)「労働の支配」は「支配の共同体」の、日常に転化し
   た生政治であり自己権力である。それは「支配の幻想」を伴って
   個人を侵食し、共同体が個人を支配する。

5 だけど、それはある程度しょうがないんじゃないですか。例えば岩田弘さんじゃなくて、岩田昌征さんというユーゴスラビアやポーランドの社会主義を研究している研究者がいますが、いわゆるアソシエーション社会主義では、労働者同士の兄弟殺しが起きると言う。(荒)p167
   ※(前山)ルサンチマンのないところにはうそざむいかわいた言
   葉があり、ルサンチマンから生まれた思想を超えることは超人に
   しか出来ない。

6 〜略〜しかし僕が体験してきた鉄は腐りきっています。原子力産業も腐りきっている。(望月彰)p172
〜略〜上が言った命令は、どんなにおかしいと思っても逆らってははいけない。逆らえば次の受注がはない。そういうルールなんです。(望月彰)p174
 ※鉄と原子力だけが腐りきっているのでは、勿論ない。それは日常世
  界(市民社会)に網目のように張り巡らされた「悪い支配」なの
  だ。ただ、「良い支配」と「悪い支配」の間にどのように境界線を
  引けばよいのか、ということについて人類は、正しい答えを承知し
  ているのにもかかわらず、まだそれを正しい答えだと認めないでい
  る「悪い支配」が好きな、生き物なのだ。

私には、新左翼諸党派の興亡や、闘争の細かい経緯やには関心がない。無効になった岩田理論にもまったく関心はないが、宇野経済学と廣松哲学には少しだけ関心はある。また新左翼諸党派の政治思想にも運動そのものの中にも救い出すべき理念や、思考があるようにも思えない。ましてや懐かしく思い出すようなことではない。ただそれぞれに「自由意志」で「叛乱」に与した「個人」の精神の内部から、「現在」に通じることがらを抽出して、自分の「現在」に対置してゆくことだけが、私の希望、で、あるように思われる。

    ※     ※     ※     ※

■荒岱介「破天荒な人々」彩流社2005年10月15日発行

(目次)
序に変えて――彼らは誰ひとり人生を悔やんでいない 

第一回 小嵐九八郎
 戦場(いくさば)は遠きにありて想うもの そして哀しく歌うもの 
 『蜂起には至らず』…直木賞候補4回の歌人―― 13
第二回 花園(前之園)紀男
 この門より入るものはあらゆる怯懦を捨てよ
 カリスマ活動家、長い沈黙を破る―― 35
第3回 青砥幹男
第4回 古賀暹(のぼる)
第5回 望月彰
第6回 斉藤まさし
第7回 大里晃弘

※それにしても一般市販図書とは思えないほど誤植が多かった。誤植は言葉の文化の衰弱である。

荒岱介「破天荒な人々」1 68年は「解放」か「檻」か〜「恥ずかしさ」を越えて回想を読む

2009年08月19日

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読むのが気恥ずかしい本、というものがある。例えばこの本などは、私にとってそういう種類のものの代表で、全共闘〜新左翼にかかわった人の書いた回想的な文章を読むことを避けてきた。それは、文章にして書くことなど不可能なことがあの時代の本質として多くあるはずだと、固く信ずる根拠があるからだ。また自分の幼稚と無知を思い起こさせる傷、のようなものに、容易に無遠慮に触れてくるものがあるからだ。
しかし、いたずらに年月は流れ、私にも時間のゆとりはなくなった。いくつか、あの時代の当事者の回想を読んで確かめておこうという気になった。
恥ずかしい感じ、を越えて、自分をも確かめて、おかねばならないからだ、と思う。

     ※     ※    ※    ※

荒岱介は、1945年生まれ、1968年12月社学同委員長、1970年25歳で共産同戦旗派を結成、最高指導者となった。第2次ブント(共産主義者同盟)では、塩見孝也のオルグで関西派に属し、ペンネーム「日向翔」で「過渡期世界論」の論陣を張る。「危機論」「前段階武装蜂起論」に燃える塩見が69年7月赤軍派を作った時に袂を分かつ。70年に戦旗派を結成みずから最高指導者となる。以後戦旗派〜戦旗・共産同の代表を続けたが1995年「左翼思想のパラダイムチェンジ」でマルクス主義からの訣別を表明、環境保護運動に転じた。戦旗・共産同は市民団体ブントとなりさらにはアクテイオ・ネットワークへと変身する。
この間の経緯には批判も多いようだ。
2007年正式にブント(2008年アクテイオネットワークに名称変更)代表を降りる。いまは出版社を経営するとともに作家・編集者であり、癌で闘病している、らしい。68年をそのピークで体験、その後の変遷を担うために生まれたようなめぐり合わせの、人生のタイムスケジュールである。

ちなみに自身のhpでのプロフィールは以下のとおり。
  1945年生まれ。1965年早稲田大学第1法学部入学、現代文学会に所
  属し文学活動を志していたが、1966年ベトナム反戦闘争を契機に学
  生運動に参加。第二次ブント8回大会社学同委員長。三里塚闘争や
  東大安田講堂占拠闘争で実刑判決を受け三年有余下獄する。
  1960年代後半より実践家であると同時に新左翼運動の代表的イデオ
  ローグとして活躍。近年哲学者故廣松渉との交流をつうじて現代思
  想を研究、マルクス主義に立脚した社会変革は無理との結論に達す
  る。
  教義に基づかない、人権を守り地球環境破壊に抗すラディカリズム
  を提唱している。出版社を経営。ブントを代表する実践家。

このあまりに短くするがゆえにホンネや本心を感じさせる大幅な「裁断」と「編集」には、見ていて気恥ずかしくなるような内心の動きを感じさせる。誰でも、自分の経歴を短くまとめることには「無理」があり、そこを無理にも、ヒトに伝わるようにと自負(のつもりの陶酔)と少しの(つもりの)弁解と、少しだけの(つもりの)自己正当化が綯い込まれている。「ことば」の水準が、その人の「存在」の深みにまで、達していないからだ、とも思われる。また「貨幣」や「商品」におけると同様の作為が無意識になされているからのようにも思われる。  

     ※      ※     ※

1965年早稲田第一法学部入学とは、私も同じ法学部(私のときはすでに第二法学部は社会科学部に統合されていた)で、8年先輩にあたるのだ。1973年には、早稲田にはすでにブントの姿はなく、革マル派が他派を暴力的に追い出し統制派的な専制支配を確立していた。昔日の早大闘争の舞台、第2学館は廃墟のまま正門前に残り、第一学生会館は革マル派が押さえていたが、その、確か16号室の、荒が属したこともある現代文学会には政治色はなく、政治の季節はまだ燃え続けくすぶってはいたがはっきりとした退潮期にあった。3年浪人して第一文学部に入学し、現代文学会に入ってきた元高叛共闘の寺田君は、すでに運動を離脱していて、荒とブント(もしくは戦旗派)の(元)信奉者だった。

「遅れてきた」わたしたちにとって「政治の季節」は「大きな」「最後の」退潮期にあったが、しかし早稲田では1972年11.8の川口大三郎君虐殺事件をきっかけとして革マル派の暴力的支配に反対する大衆的な反革マル運動が起こり、ノンセクト主導とされる11.8早稲田行動委員会が結成され、1973年4.28一文学大を成功させ全学的な勢いを得ていくかに見えた。これに対し革マル派は全国動員で高田馬場〜早稲田間を制圧、暴力で反対派を排除にかかった。解放・ブント・中核の各派は(特に解放派とブントは)これに積極的に介入して応援部隊を送り込み5月〜6月にかけ、数次の衝突を繰り返した。第5・第8などの機動隊が常駐し、早稲田は檻と化したともいわれ、朝日新聞は「どうしたワセダ」と自己解決できない状況を揶揄する記事を掲載した。それぞれの場面では武力的に、ブントや解放派が革マルを放逐したが、「常駐」できず「制圧」し続けることが出来ない彼らが立ち去るとまた鉄パイプを持った革マル派が戻りキャンパスを「監視」することとなり、事態は「檻」として膠着・停滞・固着していくこととなる。(法学部長〜総長を歴任した刑法の西原春夫、会社法の奥島孝康は、個人としてどうあろうと結果として革マル支配〜檻の早稲田に手を貸した有罪者である、と言わねばならない) 
無論どの「党派」が制圧しようと「檻」は「檻」でありつづけるほかはないのである。「檻」の中からは、手に届くかに見えた、「解放」の空気が虚空に消えて行くのがありありと感じられ、わたしたちは「解放の感覚という希望」と「現在に反転する身体の絶望」とに引き裂かれていた。

(「檻」の中の、わたしは現代文学会で少数の友人たちと文学や政治に「焦慮」(死んだ4年先輩の岩間さん)しつつ、現実の前の自分のあまりの無力に打ちひしがれていた(だけだった)のだろう。
「檻」はあるいは、わたしの中にも育っていたのかも知れず、そちらのほうがむしろ「檻」として有効だったのかも知れない。「檻」が今日、どのように継続しどのように変容しているか、わたしたちはよく承知しているが…)

     ※     ※     ※

60年/68年を頂点とする新左翼運動の持った意味は、勿論1900年代初頭の前資本主義化段階のロシアレーニン主義的な政治革命の問題ではなく、全体としては高度資本主義化が近代化の徹底を通じて封建遺制としての支配共同体を解体するに至ったことをうけて、人間とその社会の構成の仕方の原理を革新することであった。
それは全体として個人と支配共同体の関係を逆転し、個人の優位性を出現させ、桎梏としての前近代的、近代主義的思想・観念を無効にしたのであった。そしてそのかぎりにおいて「革命」であった。

それは全共闘においては「大衆」化された個人がその存在を主張し、個人が闘争を快楽としてエンジョイした。高度資本主義がもたらす新たな人類の段階の社会関係が大衆としての個人の身体性から表現された。

新左翼所諸党派においては個人の反支配共同体のエネルギーを、吸収するというより、そのエネルギーに「のって」運動の高揚と捉えたが、「党派」であることにおいて近代主義的というより前近代的な支配共同体としてしか存立しえない構造ゆえに、時代の「負」性として結果せざるを得なかった。
  ※支配共同体は、常に自己を保存するため、敵または被支配者を作
   り出す。そして、それはそのまま差別にも排除にも、そして監視
   にも、処罰にも自律的自動的に移行する。

これらの変化は1956年には兆しがあらわれ、1960年安保、さらには66年〜69年全共闘運動として大衆的に認知され、さらに質的にも純化されて1980年消費資本主義(高度資本主義)として大勢を占め、定着する。
1991年バブル経済の崩壊〜2000年ITバブル崩壊〜2008年高度IT化金融資本主義(グローバリズム)バブルの崩壊は封建制の残滓(支配共同体)を最終的にその感情においても解体し、消費資本主義のはっきりとした定着から、さらに次なる時代または段階への変容を迫る。
日本国の「政治」においても55年体制から、2009年自公政権崩壊へと、支配共同体の解体を追認している。

しかし、支配共同体がもっとも有効に作動する場面(生産・支配の場面=企業・官僚組織)にはなおその秩序が根強く残っている。(自由民主党など保守派の中にさえ、「脱官僚」=脱統制派を唱える動きが出てきたが…)

    ※     ※     ※     ※


■荒岱介「破天荒な人々」彩流社2005年10月15日発行

(目次)
序に変えて――彼らは誰ひとり人生を悔やんでいない 

第一回 小嵐九八郎
 戦場(いくさば)は遠きにありて想うもの そして哀しく歌うもの 
 『蜂起には至らず』…直木賞候補4回の歌人―― 13
第二回 花園(前之園)紀男
 この門より入るものはあらゆる怯懦を捨てよ
 カリスマ活動家、長い沈黙を破る―― 35
第3回 青砥幹男
第4回 古賀暹(のぼる)
第5回 望月彰
第6回 斉藤まさし
第7回 大里晃弘

※それにしても一般市販図書とは思えないほど誤植が多かった。誤植は言葉の文化の衰弱である。

流山に茫々もえる〜中越さんの有機農法と農と食 3 恐るべし自然のうまさ。野太いオクラ、あま〜いきゅうり

2009年08月06日

おねだりして、お土産にオクラときゅうりをいただいた。
朝採ったもので、トラックの荷台に積みっぱなしなので、暑くなっている。水分も抜けてきゅうりは柔らかいが、しかしみっしり重い手応えがある。
オクラは茎が野太くてとても力強い。土の強さを感じる出来だ。
きゅうりはかたは良いがちょっとふにゃふにゃで頼りない。
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持ち帰って、少し水に放して、少し冷やして食べた。
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オクラは、予想通り、歯ごたえ強く、味は旨みが強く力強い。ハウスのものとは比べ物にならない味わい深さ。そのままで十分うまい。
この野太いうまさは、有機無農薬というより、自然農法のそれ、であって、たっぷりの土の力がオクラの力に乗り移っているようだ。

しかもこのうまさは、明くる日もその次の日も続いた。

きゅうりは、水を吸い、みずみずしく漲っている。
内部には、たね、が尋常ならざる美しさを放っている。
たね、の美しい果菜、または果実こそ内面からの美を放つものである。
口に含むと、甘やかな柔らかい味わいが広がる。
甘みがとても強い。こんなきゅうりは初めてだ。
もちろん、こちらも何も味付けはいらない。
噛むたびに、甘い甘いふくよかな、果物のようなきゅうりに驚いた。

恐るべし、3年目の有機農法、恐るべし自然の力、である。

農業に理念は大切だが、理念で農業はできない。
売れなければいけないし、安全は無論のこと、美味しくなければわざわざ手間をかける有機無農薬の価値はない。
美味しい、は確かにいろいろなことを救うのだ。

流山の「里」にはいろいろな力が育っていく土壌があるようだ。

     ※     ※     ※

◆私の畑 代表百姓 中越節生氏
 所在地 流山市大畔 字中ノ割321
 連絡先TEL/FAX 050-1358-0058
 URL http://ameblo.jp/watashinohatake/

流山に茫々もえる〜中越さんの有機農法と農と食 2 草ぼうぼう畑にもえる新しいちから

2009年08月06日

手入れの行き届いた「里」の畑に、中越さんは「有機」農法を持ち込んだ。中越さんの畑だけが草ぼうぼうだ。まあ、ちょうど秋物への端境期にかかることもあって、倒す前の畝はちょっと草取りを「休んだだけ」とのことなのだが、それにしてもすごい雑草の生命力だ。

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中越さん(右)は3年前まで、外資系生保の会社員。八木さん(左)とは同僚だったわけだ。一念発起して1年間の研修を受け、この地に2反ほどの畑を借りて農業に転進した。
3年間の努力が実を結んで、周辺農家にも自治体役所にもようやく認められてきて、来年はもう2反の畑と、6枚(たぶん2反田かな、と思うが聞き漏らした)の田んぼを借りられるのだという。
そして4反の耕地を経営するようになると「農業者」としてして認められ、何かと有利になるのだという。
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隣接農地はごく近接しており有機無農薬ではないし、3年ほどの耕作では「有機」認定には当たらない。しかし、牛糞などをふんだんに使った自然堆肥を多用した豊かな土地作りは確実に作物の品質に反映され、明らかな優位をつくりだしている。
殺虫剤はもちろん不使用。蜂や虫がいっぱいで、茄子の葉っぱはこんな具合だ。
(くれぐれも雑草は、端境期へ向かうのでちょっとだけ草取りを省いた?今だけ、なので…)
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トマトはもう終わりだが、まだまだ熾んに実を付ける。
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オクラの花は、ここでも美しい。
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傍らの畝では、もう秋ものの作付けが始まっている。
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茫々の草の中で、忘れられたように虫食いだらけのバジルが密生する。
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茫々百里とはゆかないが、この2反ほどのせまさの畑の中には密集したエネルギーが充満して萌え出ようとしているようだ。
それは、「近代」が解体しつくした「米」にまつわる「村落共同体」=「支配の共同体」など見たこともないあらかじめ分断されていた世代からする、一人の身体の深さをそのまま維持しながらあらたな「里」や「故郷」を作り出そうとする、まったく新しいちから、ポスト・ポストモダニズムというような力なのだ。と、わたしには思われた。

     ※     ※     ※

◆私の畑 代表百姓 中越節生氏
 所在地 流山市大畔 字中ノ割321
 連絡先TEL/FAX 050-1358-0058
 URL http://ameblo.jp/watashinohatake/

流山に茫々もえる〜中越さんの有機農法と農と食 1 「里」の風景に幻視の「故郷」を感じる

2009年08月06日

すっかり遅くなったが、7月29日に流山で脱サラして有機農法にチャレンジしているという、中越節生(なかごし・せつお)さんの「私の畑」を訪ねた。

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駅で言えばつくばエクスプレスと東武野田線が交差する、流山おおたかの森が最も近くて、直線距離にして1kmほど。歩いても15分ほどだろうが、このあたりで歩く人はまれだ。
交通空間としてはここはすでに「イナカ」なのである。

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しかしもちろん住宅は立て込んでおり、さして農地が残っているわけではない。流山市の公開データによると平成17年現在で農家戸数447戸、経営耕地面積398.8haとなっている。(平成20年版流山市統計書)
平成6年には農家戸数は938戸、経営耕地も624haあったから、戸数は半減、耕地は3分の2になった。
主要な農地は江戸川沿いに広がる水田と、市街地内に取り残されたような小規模な畑地である。
航空写真で見てみると、この場所は市街地内に残るなかではもっとも大きくまとまった農地のように見える。

今回は、旧知の生保マンで自分でも100坪ほどの畑を耕す「農業志向者」の八木さんが車で案内してくれた。
「郊外」特有の工場や商店や住宅が乱雑にばら撒かれたような殺伐とした2車線の細い道を走り、木立の茂るあたり自動車学校の角を一段と細い道へ曲がりこんで100メートルほども走ると、急に視界が開ける。

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そこには、まるで別の世界へ入り込んだように、畑が広がり、向こうには「里」の森が広がる。この「手入れされた自然」は私たちに懐かしいものだ。まさしくハイデガー言うところの「故郷」であり、私たちの心性に根付いた「本来性」というものであろうか。

何百年もの歳月、もしかしたら千年にも近く、良く手入れされ整備されてきた「里」の風景だ。広々と開けた畑の向こうには防風を兼ねた屋敷森というより、「里山」と呼びたいような巨大な森が広がるのだ。

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この良く手入れされた畑地の周囲には数軒の農家が取り囲むように点在する。しかし、多くは後継者に悩んでおり、この風景は実は存亡の危機に瀕しているのだという。

すでに「故郷」としての観念の力は喪失しているにしても、今に生きる「里」は、人間の「本来性」の根拠を、あるいは身体的に確認するなにものか、であるだろう。
傷つき、滅びようとしている幻視の故郷がここにある。

     ※     ※     ※

◆私の畑 代表百姓 中越節生氏
 所在地 流山市大畔 字中ノ割321
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