吉本隆明『生涯現役』3 繰り返し通奏する「思想の根源」としての「マルクス自然哲学」

2009年07月22日

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吉本的「情況」論はやはり、この人の本質的態度であって、変わることはない。

  サルトルのような、マルクス主義は超え難いというようないい方
  ね、ぼくはそんなことは思ったことはありません。一つには乗り越
  えられるべきものはどんどん乗り越えて、新しい状況や時代に向かって
  いかなければならないと思うのと、もう一つはこれを乗り越えれ
  ば、今まで考えてきたような歴史の範囲のもう少し先まで、例えば
  宗教のことをどう考えるかといった問題に対しても、あらたな解答
  が出てくる可能性を感じるからです。宗教というのは、要するに人
  間が人間であるための精神活動の起源ですからね。これには具体的
  にいうと、ネパールとかチベットのそうした人たちを弾圧するのは
  間違いだと思っていることも含みます。それがロシアのマルクス主
  義の失敗のもとだったんだよと思ってますから。P116

人間の精神をめぐって、極めて原理論的なようでありながら、すべては最後の「それがロシアマルクス主義の失敗のもと」へと集約・還元されてゆく。この人の関心は徹底して「現在」にはじまり、「現在」に帰るのか。
※ここでは「情況」ではなく「状況」という用字、である。はじめて見た、ような気がするが…。

また呪文ののようにこのクニの左翼(社共)や、日韓関係に相当危うい仕方で言及する。昔日のインパクトも際立った論理性もないが、その執念は変わらぬものがあり、心底懲りない人、飽きない人という印象だ。

そして、意外にもこの本の中でも繰り返し語られ、飽くことなく強調されるのは、あの、「思想の根源としてのマルクス自然哲学」である。やはり1963年ごろの「マルクス紀行」と「カール・マルクス」は吉本にとって、その後の「思想の根源」を掴むものだったのだろう。

  マルクスが価値論でいったことは、人間は精神的にであれ肉体的に
  であれ、外界に対して何らかの働きかけをする。働きかける対象は
  人間でも動物でも無生物でもかまわないんだけれど、とにかく外界
  に対して何かをした途端、外界は肉体的なあるいは有機的な人間の
  延長になる。つまり、価値を生じるんだっていうことです。〜略〜
  ですから、その部分的なところに働きかけて稼ぐ、あるいは生活す
  るっていうことも、ぼくらが働くってことも、マルクスのそういう
  考え方の中の一部分に当然入ってきますよね。たとえばサラリーマ
  ンとか労働者とかが、働くってことで外界に手を加えたら、精神的
  にか肉体的にか、必ず自分も有機的な自然物になっちゃうんだとい
  うことですね。つまり、人間が動物や無生物と同じになるんだ、そ
  のときに外界は必ず価値を生じているんだってことです。―p123

  マルクスのイデオロギーというか理念、思想の前には、一種の身体
  論的な自然哲学があるんです。身体論にはメルロ=ポンティをはじ
  めいろいろありますけど、ぼくはマルクスの身体論が一番いいんじ
  ゃないかなって思ってます。要するに精神であれ肉体であれ、人間
  が外界に対して働きかけ外界が変形して価値が生じると、人間は生
  きた有機的な自然に変化する。要するに人間が有機的な自然に変化
  しなけりゃ外界に働きかけることはできない。そういう自然哲学で
  す。外界が価値化する、つまり、自然が人間の肉体の延長線になる
  ということと同時に、人間も有機的な生きた自然というふうに変わっ
  ちゃうんだと。働きかけた瞬間に相互がそう変わるっていうこと
  ですね。自然が価値化して、人間も変わる。それは今も一番妥当な
  んじゃないかなとぼくは思っています。p194〜5

マルクス自然哲学の、この絶妙な把握は、価値形態論にも通じるマルクス理解のキイであり、また吉本のもともとの思考法に通じるものがあり、自立論の根幹をなし、その後の思想的営為の基盤となってきた、と思う。

この「根源」を維持するかぎり、おれは「生涯現役」なのだとでも言うように、強い調子で語られている、ように見える。


吉本隆明『生涯現役』2 吉本的「生活の倫理」の明るさと今日的「明るさ」の虚妄

2009年07月22日

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その他の老いの問題は多岐にわたり、それはそれとして十分大きなテーマなのだが、さらに経済的な問題に言及して、年金や何かでもうちょっと「隠居」らしい暮らしができると思っていたが、現実は今も働かないといけないという一節には、驚きを禁じえない。

  今もちゃんと働かなければ、つまり銭を取らなきゃ参っちゃう、ちょっ
  と手を上げちゃうな、というのが正直なところで、こんな馬鹿らし
  い商売はねえやというのが実感ですね。―P16

あの、「戦後思想」の第一人者吉本にしてそんなものなのか、これが「生涯現役」という生な意味か?という驚きとともにわが身を振り返ると、さらに心もとない気がしてはなはだ薄ら寒い思いがする。
この世界の成り立ち方の経済主義的な非情な事実は、ひとを様々にインスパイアしエンカリッジしてきたが、それ以上に荒ませても、来た、であろう。わたしたちは時に、人はパンのみにて生くるにあらず、ということばに、確かに救われることがある。が、それは、食は食によってのみ贖われつぐなわれるというそれ以前の、動かせぬ真理があるからこそ「救い」なのだ。

吉本隆明は、歴史上初めて自分の生活の糧をどこからどのように得るか、ということを文学や思想にかかわる当然の倫理として問題にして、自ら実践してきた文学・批評家業にかかわる人物である。
東工大の恩師、遠山啓の紹介で特許事務所に隔日で通って生活費を稼ぎながら1950〜60年代のもっとも創造的なまた「情況」的にも緊迫した時期を、生きたことは有名だ。文京区内に家を購入したについても、ことの次第を概ね推量できる程度にはあけすけに語っていた。
そのような「生活の倫理」を、「武器」に転換して、つまり論理化して、丸山真男を自らは東大教授の権威に安住しながら政治に口を出す「いかがわしい文化人」と呼んで痛撃した。
(今日では、当時とは様変わりして、大学教員の身分に安住しながら思想する、または文学することは半ばほどは「特権的」ではなくなっているかもしれないし、その分後ろめたさはなく、「市井の生活者の気分」として「明るい」気分になっているかもしれないが…。
そうであるならば、多くの、生活の糧を自ら絶つように、社会の「入角」のような市井の、その影の一隅に身を置いたものたちは、そしてその無声の否定の叫びは、どこへ行ってしまったのか…。それは、もちろん、半ばほどはそそっかしい勇み足、のようなものとしてここにあり、この同時代に突き刺さる棘、としてある。突き刺さることさえない多くの公認された「明るい」言説は虚妄である。はずだ…。わたしにはそのように言う根拠がある、と言っておきたい。「本当のこと」は、なんら許される展望を持ちえないもの、負性の「許されざるもの」としてのみ、当時も、今日も、在りうるのだ、と言っておきたい。)

そうした「倫理」を「論理化する」荒業は、「詩的絶対性」として精神の中に凝縮され胚胎されていた。

  <この執着は真昼間なぜ身すぎ世すぎをはなれないか?
  そしてすべての思想は夕刻とおくとおく飛翔してしまうか?
  私は仕事をおえてかえり
  それからひとつの世界に入るまでに
  日ごと千里も魂を遊行させなければならない>
    ――「この執着はなぜ」

  ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
  引出しからつかみだすように 心の傷から
  ひとつの倫理を つまり
  役立ちうる武器をつかみ出す
    ――「涙が涸れる」

吉本思想の大きな基盤となった「民衆」の生活(=「大衆の原像」論)の視点は、吉本の思想的正当を証すものかどうかはともかく、論じつくすことができないほど多くの収穫を時代にもたらした。
私たちの社会は、このやんちゃで深い老人にどれほどの尊敬と経済的報酬をもって報いているだろう。

吉本隆明『生涯現役』1 まえがきの重さ、あけすけな「老い」への内部からの言及

2009年07月22日

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「生涯現役」というタイトルにひかれて、きっと老いの繰言を(流石に吉本も!)語っているのだろう、と気軽に読み始めた。
確かに座談であって、「軽い感じ」で読めたが、内容は幅広く、いろいろなことに及んでいる。
しかも自身の思想の来歴をごく短く振り返った、抽象性の高い、内容の濃い、読み応えのある「まえがき」では、老いてこそ、ようやく「思想」というものがわかった、とまで書いている。
(まえがきは、本文の後で、読んだのだ)

  身体性の順序でいえば、種としての遺伝子の変化、風俗習慣の変
  遷、地域ごとの言語発展の仕方の違い、文明・文化の進展の仕方と
  度合いなど根底にある自然への働きかけなどが、個々の身体性の内
  在史と外在のいわゆる「歴史」とを媒介する主な項目だといえよう。
  わたしは、老齢期に達して身心(ママ)の新しい感覚の変化を体験
  し思考に乗せたとき。本質的に<思想>の意味を理解できたように思えた。
  
※注 根底は「根柢」ではない。身心はそのまま写した。「心身」ではない。また珍しくもはじめの方4行目で明らかに訂正ミスかと思われる舌足らずな言い回しが発見される。これらの用字用語の変化はなんなのか。言い回しの変化はゆるみ、のようなものなのか。と思っていたらこの項一番下の「書くこと」の困難の記述が出てきて、ああ、このようにしてこの「まえがき」は書かれ、校正されたのか、口述ではないのだ、とわかって感慨に打たれた。

微妙な変化もあるが、老いてますます言葉は重みを増し、重厚を増し、抽象の純化度は増している。ごく若いころ鮎川信夫が吉本隆明に向かって、日本人はたいていとしをとると緩んでしまい、円満になって、好々爺になるが、ユダヤ人は年をとるにしたがってますます闘争的になり、きつくなる。吉本はユダヤ的だと、いうような事をいっていたのを思い出す。
この「まえがき」だけでも十分重い。解読するのも大変だ。
やられたな、という感想だ。

     ※     ※     ※

中身は、まずは、予想通りにやって見せてくれる「老い」の話である。

吉本隆明は、今年85歳である。「生涯現役」ということは、吉本的「情況」からはすでに引退したとしても、今も現役と、本人は思っているのであろう。※本書は2006年の刊行である。この老人が生きて、変わらぬ「姿勢」で発言し続けるている、ということは、死んだ岸上大作みたいに「この世は〜」、ではないが、何かやはり、自分にとって何かすることの「つっかえ棒」みたいなもののような気がする。
  ※『「言語芸術論」への覚書』(2008年刊行)では「この社会に生
きることのどこにいいところがあるのか、といわれたら、どこにも
ないと言うよりほかにない」、また「情況判断はさらに私の思考力
を超えて劇的に展開した」、「ことに科学的に少しの思いつきを追っ
たに過ぎないと思えることが莫大な富の権力に結びつきうるという
自体の怖さを見せつけた」と述べて、「情況」からのリタイアを宣
言した。と思えるが…。

相当あけすけに老いの肉体や気持ちについて語る。吉本の上の歯が全部入れ歯で具合がいいとか、性欲について女は灰になるまで、またはなっても、だが男(の老人は)実際には性交はできないが性欲も異性への関心もあるとか、また定年前の医者に老人のことは分からないとかはそれだけでも十分、老いというものに関しても、吉本という人はやはりホンネで言うのだな、と思わせる。「老い」というもがそもそも逃れようも隠しようもなく「あけすけ」だからであり、それはすなわち「生」というものの意識にとってのあけすけさであり、ある意味、吉本はその「あけすけ」を従来にない「あけすけさ」と緻密さで思想の言葉にして見せた、のだと思う。

  ぼくは、読むほうは、片手でもてる小さなテレビカメラみたいなも
  のを使いながら、モニターで拡大してみています。
  しかし、書く段になると、桝目のある用紙を左手で押さえ、用紙の
  桝目を目当てにして書くという不自由なことをしています。〜略〜
  こっちを左手で押さえ、こっちでボールペンを持つと、たとえば、
  何かを引用して書きたい場合なんかに、両手はふさがってるし、字
  は見えないしで、とても困っちゃうんですよ。―P101

こんなにまでしても本を読み文字を書くのだ、この人は――。わたしならとっくにそんなことは「放棄」してしまうのではないか。(「稼ぎ」になるなら、別、かも知れないが…)

■吉本隆明『生涯現役』洋泉社新書y2006年11月20日780円+税

橋本治の「自由」と断言肯定命題〜深さとくどさと柔らかさ 「橋本治という行き方」

2009年07月18日

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橋本治は、今まで読んだことがなかった。
「軽い」小説と読み物を書く人、程度の印象で見過ごしていたのだ。
わたしの読書と思考の偏り具合にあらためて思い至る。

読む気になったのは三上治の『1970年代論』の後半で、三上が三島由紀夫を大きく取り上げ論じる中で、橋本の『三島由紀夫とは何だったのか』を、重要な参照先としてあげていたからだ。

その後、書店で見かけて「院政の日本人 双調平家物語ノート2」という本をついふらふらと手に取り、手に取っただけでなく、ぱらぱらめくり、それが平家物語の解説ではなくいわば日本史を書き直そうとしている、というか、自分のための日本史を「作り」つつある、ようだったので、思わず購入してしまった。何か私の目指していることをそっくり先取りされているような、嫉妬感があった。
そして、そのまえに橋本が自分自身について言及している本を読もうと思って、「橋本治という行き方」を買った。
「生き方」かと思って、ちょっと腰がひけたが、「行き方」だったので、自分を「微分」する人だな、と思い読んでみた。

橋本は徹底して、権威とか、体系とかに反逆しつつ自分の権威とか体系とかも解体し続ける、といった、しかし読みやすい(比較的)、柔らかい日本語の「フーコー」みたいだ。
ここでも柔らかいフリをして、いやフリもしているが、実際相当柔らかく消化され、角や入角の取れたしかし辛辣で深みのある、相当突っ込んだ議論をしている。
読み終えて目次を見てみると、実は大きな流れに沿ってかかれていて、隠された(というほどでもないが)「大きな物語」が見えてくる。どこから読み始めてもよいような内容と構成だが、しかしあとで振り返ると、この構成でなければならない――つまり体系的、なのである。

    ※     ※     ※

断言のための文体 くどさ⇒深さ⇒柔らかさ

最初の「この厄介な自分」は、物書きとしての自分を語る自分解説、である。最初のほうでいきなりこんな断定に遭遇する。
  
 「原稿を書く」が、私にとって必須となるのは、それをしないと、
 「人の思惑」という独房の壁が迫ってきて、圧迫死させられそうにな
 るからだ。

「人の思惑」も「独房の壁」もよく分からない。人とは何をさしているのか、なぜ人の思惑が独房の壁なのか、まったく分からない。饒舌な2〜3行をおいてすぐ次のように言い直す。

  現実の中で漫然と過ごしていると、へんな他人の思惑が壁のように
  迫ってきて息苦しくなってしまうから、自分の自由空間が閉塞しな
  いように、「自分」という防護壁を築く――それが私にとっての
  「原稿を書く」で、おそらく、それ以上に積極的な意味はない。私
  にとって、生きることと原稿を書くことは、息をするのと同じよう
  に、一つなのである。

この言い直し、言い換えはある意味くどいのであるが、抽象の美しさより具象の実在性や身体性を選ぶ、ということである。難しい言葉で提出される大文字の「概念」は通時的な普遍性や抽象化された美と引き換えに、現実の生な手触り(=「現在性」)または共時性と言うようなものを失うからである。

「漫然」はどうも頻出する橋本用語だが、他者に働きかけるというより自分のリズムで生活の中で普通にやっているということで、けして何もしないわけではない。「現実の中で漫然として」いるのだ。「漫然」は、現実の生活の中で普通にやっていると、ということで、「へんな他人の思惑が壁のように迫ってきて息苦しくなってしまう」は再度説明なしで反復されているのだが、ここはこちらが推量しなければならない、ということだろう。あるいは橋本のよい読者なら承知していることなのだろうか。あてずっぽうで言ってみれば他者との関係が、ある朝虫に変身するグレゴール・ザムザのような受苦的なものであるというような不条理をさしているだろうか。
というように深読みをさせることになり、「くどさ」が「深さ」にかわって行き、「ひきこまれ引きづられるように読まざるを得ない独特の粘りのある文体」の柔らかさにいたる。で、読んでゆくが、ところどころに、概念的な凝集した文章があらわれ、「思想界」や「文学界」や「批評界」ときちんと繋ぎをつける。
(この「深さ」は示唆されるだけで、けして踏み込まれはしないが)

そして、いきなり「生きることと原稿を書くことは、息をするのと同じように、一つなのである」という断言肯定命題がくる。
この断言はいったい何なのだろう。この断言が軽く許される感じ、を維持するのが橋本治の場所だ。ここへいたるためにぐるぐる周囲を回って見せているように思われる。

コトバが、意味や概念や論理で凝集されずに、少しずつずらされたり膨らまされたりしてつながってゆく。言いかえをしながら輪郭を狭めてゆき、ある程度まで凝集してくると、もう、いいよ、という感じで切る。
これは、楽になるような気がする。

粘りはあるが、粘り続けない。

自由と断言肯定命題の仕組み

またこのように言う。

  昭和が終わったその日、私は「自由になった」と思った。
  「なぜ自分は自由だと思うのか?」と考えると、その答えは一つし
  かない。昭和が終わるとともに、「正解の座は一つしかない」とい
  う状況が終わったからだ。  

また、すぐにつづけて次のように言い直す。

  「なにをもって、“自分の自由”を実感するのか? どういう状態
  が自分にとっての自由なのか?」――それを考えると答えは一つし
  かない。昭和が終わるとともに、「正解の座は一つしかない」とい
  う状態は終わったのだ。

普遍的でオープンな実にまっとうな、まっとうすぎるほどまっとうな問いかけをして問題を「自由とは何か」という風に思いっきり広げて期待させたあとすぐ、前文とまったく同じ断言を繰り返す。分析をするより、生な実感に帰ってくるのだ。抽象から程遠い。
断言肯定命題、である。饒舌な。
だがそれぞれの断言がそれぞれの局面で相当考えねばならない断言なので、繰り返し読む気になる。

橋本治の「自由」は橋本治の内部に強く明確に感覚されていて、そこでは、たぶん、「概念」化される前の、いわば原初の「感覚」の残像のようなものが渦状星雲みたいに渦を巻いているのだろう。そしてその「内部」はともすると閉じこもろうとするようだ。
その閉じこもりを、「閉じこもってもいいんじゃないの」と言いたげに「断言肯定命題にして」とりあえず外部に投げ出してしまう。この命題はいわば「概念」として対象化されてゆくものだが、それはそうなってもよいように、「棄てる」ものとしてに投げ出してしまう、ように見える。
この、頑強な仕組みは興味深い。

人間の生活の歴史は、労働が生み出す価値を動力源に、安全と豊かさと満足を実現するシステムを形成してきた。調和のための秩序、みたいなものだ。
しかし、人間の精神は、個人を共同体の秩序のくびきから解放することを求めてきた。「自由への道」みたいなものだ。
外部との異和や齟齬は、人間が社会を作って生きるかぎり、なくならない。それは生きるのにどうしても経済活動やお金が必要であることに象徴されている。
ならば、人間の自由は、外部へと相わたるぎりぎりのところで死んだフリをしてみせ、また内部へ戻って戦闘力をつけて外部へと相わたる網目のような構造のあちこちをつつき続けるということであろうか。

類的本質の中に自由への道は続いているのであろうか。例えば「共感」することのように。「社会」を作ることが人間の必須の条件なら、そのなかに「自由」はなければならない。ので、あるが……。

読み終えて目次を見てみると、実は大きな流れに沿ってかかれていて、隠された(というほどでもないが)「大きな物語」が見えてくる。該博な知識と、弱さをさらけ出すことで居直ったかたちの一般常識を持った、ふてぶてしい強靭な生活人なのだ。
とにかくこの達者な語り手には、楽しませてもらえることを期待できそうだ。

    ※    ※    ※


■橋本治「橋本治という行き方」朝日文庫2007年9月30日(初出「一冊の本」2001年7月号〜2005年1月号 初出タイトルは「風雲流水録」)
目次
この厄介な「自分」
なぜ書くか 12
小商人の息子 18
「自分」はどこへ行った 23
「自分」を消す 28
「思想」というよく分からないもの 33
おとぎ話を捨てた時 38
この「作家」という職業
自由になりたい 44
芯を読む、芯を書く 49
ある作家について 54

この不思議な「距離感」
遠い記憶 60
錯誤としてのスタート 65
在野というポジション 70
「アカデミズム」を考える 75
「教養」という枠組み 80

「雑」と教養
教養と標準語 86
恭順後としての教養 91
「キイワード」というキイワード 96
一山の本 101
蚊柱のように 106
「貫くもの」を考える
コンピューターと別れた日 112
縦軸と横軸 117
頑固者としての縦軸 122
「どうでもいい」という実感 127
批評言語としての日常語 132
「バカげたこと」をもう一度 137

「広がること」を考える
批評の台 144
批評軸のねじれ 149
機械の苦悩 154
行きづまりの研究 159
批評軸の乱立 164
受け手の責任 169

この悲しい「マーケット」
そういう「批評」の不在 176
世界観の差 181
批評とマーケティング 186
いらないかもしれない職業 191
バッシングと批評 196
「本」というもの 201
「よかった」と思うこと 206

この「自分の生まれた国」の文化
俗の豊饒 212
つっこまない文化 217
始まりのない文化 222
すでに始まっていた文化 227
物語の土壌 232


Rose Yumi Rose 夏の赤いスウィーツ

2009年07月14日

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7月からの夏のスウィーツ。
定番のクグロフに、
季節のフルーツたっぷりのシャンパンゼリー、
そしてさわやかで旨みのある完熟トマトのソルベ。

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シャンパンゼリーはフルフルと柔らかくて、
シャンパンの味わいも深い。
たっぷりのフルーツも彩りも味わいも鮮やかに広がり、
食べ応え十分。

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味の濃いぃぃぃ、完熟トマトをそのまま凍らせたトマトのソルベ。
口に含むと、かるくふわっと溶け出すが、
後にはラム酒の香りと濃厚なトマトの旨みが…。
それもあっと、言うほどの間に消えてしまう。
もう一口、もう一口と、後を引く、
この絶妙な濃厚な味わいの、
はかなさ――。

     ※     ※     ※

季節を深くはかなく味わう夏の赤いスウィーツ。1200円。




posted by foody at 11:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | Cafe Rose Yumi Rose

三崎の宝探し2009初夏 2 生で食べるかぼちゃ「コリンキー」、四川四葉胡瓜

2009年07月14日

今さらであるが6月13日の三崎の畑から。
生で食べられるかぼちゃ、「コリンキー」だ。
サカタのタネが開発し、2001年ごろから栽培が始まった。
去年あたりから少し広がり、話題になり始め、
今年はブレイクしそうな野菜だ。

さくさくしてさわやかな食感。柔らかく皮までそのまま食べられる。
クセがなくアクもなく食べやすい。
が、その分インパクトも魅力も言いにくいのが難点か。
甘みが少なく、食感を楽しむのが正解かも。
サラダや、バーニャカウダ、炒め物などで味をつけて食べる。

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去年からお目見えした四川四葉胡瓜。
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畑に咲く美しい大大蒜(おおにんにく)の花。
文字通り巨大だ。
可食部分(球根)は、たぶん普通のにんにくの10倍はある
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