三崎の宝探し2009初夏 1 茶豆、ゴールドラッシュ(サラダとうもろこし) 

2009年06月25日

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去年の11月(そのときは記事にしていない)以来の、久しぶりの三崎の畑だ。八百辰の原さんは、相変わらずの畑MANIAだが、ちかごろは「現代農業」に出たりしている。ちょっと若くなったような気さえする。
事務所は、2階に新設されて、新しくなっている。
どうやら社長室らしいところに通された。
油壺入り口交差点にま近い、しかし東南の日が降り注ぐ明るい部屋だ。

着くといきなり、ざるにたっぷりの枝豆だ。
今年から出荷予定だった、幻の「茶豆」。しっかり豆の味がする。
価格が合わず、販売は中止になった。
農業はたくさんの桎梏と齟齬にかこまれて生きている。

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生で美味しいサラダとうもろこしとして去年ブレイクした「ゴールドラッシュ」の蛭田さんの畑へ。ヤングコーンの出荷は6月中旬から始まっている。

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すくすく育つとうもろこしの下のほうには実がつき始めている。
下から2番目の実が一番子で、一番下に見えるのが2番子。とうもろこしは一番子を大きく育てて収穫する。そのために2番子は成長前にとってしまう。これが「ヤングコーン」として出荷されるようになった。
皮をむくと、見るからに清潔な未熟な実がたくさんのヒゲとともにあらわれる。
食べるとさく、しゃき、と口にこぼれ、甘みが漂う。生で食べても甘い糖度11度もあるゴールドラッシュは、ヤングコーンもほの甘い。



Rose Yumi Rose 鎧塚さんの夏のマンゴー・タルト

2009年06月23日

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6月に入って、さすがにいくら好評でもイチゴは厳しくなり、タルトフレーズは終わらなければならない。
6月3日にイタリアで挙式、今日23日には披露のパーティとご自分の結婚で当カフェにも打合せや取材であらわれたりの忙しいさ中、マンゴーのタルト(tarte aux mangues タルト・マングー)を用意してくれた。
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たっぷりのボリューム。
トップにはココナッツの内部の白い繊維を使ったオベリスクに金箔がついて豪華絢爛。
内部にはイチゴ同様、たっぷりのマンゴーソースが隠れている。
マンゴーのさわやかな香気と甘やかなカスタード、そして驚くほど濃厚なマンゴーソースの3重奏だ。
謹厳実直だが、中には驚くほどの情熱を秘めて遅咲きのパティシェ人生を歩む鎧塚さんらしい、ちょっぴり遅咲きだけど大輪の花のようなご結婚おめでとうございます。


posted by foody at 08:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | Cafe Rose Yumi Rose

最近読んだ本 5 黒田喜夫、谷川雁、柄谷行人、吉本隆明

2009年06月20日

黒田喜夫「彼岸と主体」「負性と奪回」「自然と行為」

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昔のものを引っ張り出して…。吉本や谷川雁が時代の「正」の面を歩いたとしたなら、黒田喜夫はその「負性」の情念の暗さ、解体しつつある農村を根拠とせざるを得ない悲劇性廃墟性において、負の面のみを象徴的に歩んだ稀有なひとりだ。それは負の極点から正を併せ呑もうとする極細い、あまりに細い道だが、しかしその射程はたしかに時代の足元の空隙に届いているように思われる。

谷川雁「谷川雁セレクション」1・2
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柄谷行人「柄谷行人、政治を語る」2009年5月
宮台真司「日本の難点」2009年4月15日幻冬舎新書
季刊「at」15号2009年4月6日太田出版
堂目卓生「アダム・スミス」中公新書

どうも、深さ、が…、なんだか違うような…。

吉本隆明「共同幻想論」「全著作集4・5・6・7・13・14」「貧困と思想」その他多数。
通読したわけではないが、頻繁に手に取って拾い読みまたは眺めた。

最近読んだ本 4 ヘーゲル 「法の哲学」「精神現象学」、レヴィ=ストロース「親族の基本構造」「野生の思考」ほか

2009年06月20日

ヘーゲル
「法の哲学」1・2中公クラシックス
「精神現象学」上・下 平凡社ライブラリー

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「共同幻想論を読む」の7回目のために読んだ。吉本は個人と共同体との関係を、「個人、家族、社会」と考え、それぞれの水準において異なる心的世界(幻想)があると考えた。とくに個人と共同体が相容れないことを重視して、個人と共同体との関係を最初に設定しようとした、であろう。
そのときヘーゲルの「子は自分の生成を、自己自身を、消えてゆく親において持っている」とか「混じりけのない関係は兄と妹の中にある。〜〜以上の関係は自己の内で閉鎖的家族が解体し、自らの外に出てゆく限界点である云々」(「精神現象学」下巻p36)といった記述に示唆を受けて、夫と妻の「対幻想」が兄弟姉妹の個人としての自立によって超越(共同体の成立)、かつ解体(個人の成立)されるというイメージをつかんだ、であろう。
そして、その共同体を国家と読み替えることにおいて、フロイト「トーテムとタブー」のエディプスコンプレックス論の構成(性的な禁制から、王と臣下の制度的な禁制へ)は、直接国家に届くように思えたであろう、か。
かくて、「共同幻想論」はフロイトの禁制論から書き起こされるに至ったであろうか…。

レヴィ=ストロース
「親族の基本構造」上巻(1977年11月20日)下巻(1978年4月20日)番町書房、
「野生の思考」(1976年3月30日)みすず書房
ミシェル・フーコー
「フーコーセレクション5 性」
「フーコーセレクション6 生政治」ちくま学芸文庫
シグムント・フロイト
「エロス論集」「自我論集」ちくま学芸文庫、
「幻想の未来・文化への不満」光文社古典新訳文庫


同じく、吉本隆明「共同幻想論」を読む7回目のために読んだ。
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最近読んだ本 3 三上治「1960年代論」「1970年代論」ほか〜「深部」へ届く言語の水準と新しい社会分析

2009年06月20日

三上治
「1960年代論」(2000年5月10日)
「1960年代論2」(2000年6月25日)
「1970年代論」(2004年2月25日)
批評社

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私は1973年ころ、吉本隆明の講演を聞きに、日比谷公会堂の叛旗派の主催する集会へ出かけたことがある。当時極少数派、であった叛旗派は吉本派であり、新左翼諸党派の中では唯一、教条主義的でないホンネに届く、ややくぐもったコトバを使う、気になる存在だった。
三上治はその指導者であった。
あれから30有余年後、あまりにきれいさっぱり一個人として身を振りなおした三上の思考が浮き彫りになる。私生活を交えて、抑制して、軽く軽くと心がけて書いたであろう青年期三上の回想は、やはりあの時代を自分のものとしたいという、激しい欲求に彩られている。特に1960年代論1の「体制全体の変革につながるような反乱はもう終わり」、「世界」と「存在」の両方の革命P63とか、2の「角材とヘルメット」の行動的ラディカリズムは、ふるびた国家権力への「急進民主主義的な異議申し立てである」とか、70年代論の「1969年1月安田講堂封鎖解除、4月28日沖縄闘争をもって運動は内発的退潮期」、さらには「日本において国家の革命はすべて支配共同体内部での革命であって。国家権力と大衆との関係が変わるという革命は登場しなかった」とかの言葉は60年代を総括する全体の核心であり、従来にない社会分析であり、共感をもって受け止めた。
またコトバの垂鉛が、機能的水準でなく、「生きる」こと、「存在」の深部にまで届くような、深さがあるように思われる。

たしかに、「角材とヘルメット」は、警察=国家権力の暴力への身体的=自然的水準からの直接的な抗議と防衛の意思表示であり、それが社会秩序全体への抗議にもつながっていたが、それで「政治革命」ができるなどと誰も(本当は)思ってはいなかった。
権力は強大で安定していたし、経済発展のおかげで民生も安定していて、大衆の意識は生活を破壊する「革命戦争」などを望んでいなかった。
ただ高度資本主義の出現は、大衆の異議申し立てを行動的ラディカリズムで表現可能にしたのだ。
権力や社会秩序からする、個人への「暴力」は、様々な水準とさまざまな規模であったけれども、身体的にも精神的にも「公」的には「個人の生命に危害を加えてはならない」という「戦後民主主義」が獲得した「生命優先」の枠の中にあったであろう。
「角材とヘルメット」は、民主主義は、固体の存在の深さと、固体の意志をもっと尊重した体系に作り変えられねばならない、という、「共同体」優先から「個人優先」へ、社会秩序の転換点であった。
それは、1985年の総理府調査「(未来より)現在を大切にするひとびと」で、消費社会として個人の生活意識にあらわれ、今日まで引き続いて「ポストモダン」社会を形成した。

スガ(糸+圭)秀実「1968年」(2006年10月10日)ちくま新書
「吉本隆明の時代」の延長として読んだ。E・W・サイードやアントニオ・ネグリに寄り添う意識が強く、現代につながる思想の萌芽を見出そうとする姿勢が強い。
時代は、サイードやネグリの言説より、もっと深く解体しているのではないか。思想はその解体の、未明の暗い底からやってこなければならないのではないか、と思える。
思考が様々な要因に、いつも直線的に一定の反応をしたり、例えば弁証法的なオートマチックな反応をする、と考えるような言語の水準が問われているのだ。

岩崎稔、上野千鶴子など編「戦後日本スタディーズ2」(2009年5月30日)紀伊国屋書店
これは読んだ、というより資料として眼を通した。60年代の思想動向、社会動向をまとめたもので総覧的な解説。年表が良い。

最近読んだ本 2 吉本隆明論 4冊とそのほか

2009年06月20日

スガ(糸+圭)秀実「吉本隆明の時代」2008年11月30日作品社、
鹿島茂「吉本隆明 1968年」2009年5月15日平凡社新書
田川健三「新装版 思想の危険について」2004年10月30日インパクト出版会
鷲田小彌太「吉本隆明論」(1990年6月15日)三一書房

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吉本の周辺を探しているうちに鹿島茂の著書が刊行されたので、上記4冊をまとめて読んだ。ほかに管孝行の吉本論、磯田光一のものを良いものとして記憶している。岡庭昇のものも、柄谷行人のものも。順次詳しく取り上げて整理して行きたい。
もちろん鮎川信夫や谷川雁、奥野健男、月村敏行など近しくあった人々の文章も。
スガ秀実「吉本隆明の時代」は、時代と知識人の関係を捉えている。安保後の吉本の「転向」と「自立」への道筋や「大衆の原像」が「超資本主義」に解消されてゆくあたりは、スガの博覧強記というべき時代の人間関係の詳細、ドレフュス事件など多数の関連思想が、世界史=日本史的にうまく捉えられていて本書の白眉である。政治的他方吉本の詩的核心はいまひとつ掘り下げられていないようだ。
鹿島茂は、自称「永遠の吉本主義者」だそうだが、こんな自分本位の解釈も、もち論あるのだな、と妙に感心した。鹿島は吉本思想の成り立ちを、都市下層(といっても経済的には豊かな)の非インテリ層という出自にもとめ、そこから、ナショナリズム論や転向論における「民衆」「大衆」論、さらには「大衆の原像」「自立」を説明している。
力作だし、フランスものの「理論」を借りたりしていないところは「自立的」だが、すべてを「東京下町の非インテリ」で言い尽くすわけには行かない。芥川にしても、高村光太郎にしても「下町非インテリ」だから、悩んだわけではなく、漱石以来の日本近代の知と社会的現実との格闘がここでも展開されていたのであり、そのような広い文脈の中で読まなければこれら文学者芸術家たちも吉本もやせて縮んでしまうのだ。

スガのものなどは思想に関しては相当全体像に迫っているように思うが、吉本の全体像はあまりに多様で幅広く、まだ部分の掘り下げに終わる論が多く、整理途上の段階かもしれない。

田川健三は「イエスという男」など歴史的イエス論で親しんだ記憶がある。ここでは「反核異論」の吉本を否定しつつ、前期(60年代までの?)吉本をすくい出そうとしている。親鸞論をてがかりに、吉本が「情況」的言説を本質論原理論に滑り込ませているとしているが、論の進め方に性急さがあって、まさしく部分を捉えて全体に拡張しているように見てしまう。

最近読んだ本 1 丸山真男

2009年06月20日

読書や仕事にかまけるうち、ブログの更新が滞っているので、
とりあえず読んだ本でもメモしておこう。

     ※     ※     ※

丸山真男「日本の思想」岩波新書、丸山真男・梅本克己・佐藤昇「現代日本の革新思想」岩波現代文庫、丸山真男「忠誠と反逆」ちくま学芸文庫

丸山真男の「おさらい」をするつもりで読んだ。「日本の思想」は近代の分析については、吉本転向論より早く、且つずっと適切に正確に日本近代の構造を剔抉している。心情を掻きたてる力はないが、深く思考をめぐらせる力がある。
「現代日本の革新思想」は、極左、構造改革、市民主義の3派を代表する論者の対談。「革命」を現実のものとして扱う、状況的発言は相当に古びているが、その中には、時代を深く捉える省察や考察が含まれていて興味深い。吉本はこの鼎談を捉えて「状況への発言」のなかで丸山真男を激しく非難している。が、しかし、吉本の非難のようにはことは明快ではなく軽くは扱えないものがこの本には含まれている。
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