三崎の宝探し2008初夏 その1 新野菜への執念〜四川四葉胡瓜

2008年05月29日

26日、Salsiccia!DELIのスタッフと
三崎の八百辰の契約農家の畑を見に行った。
5月とはいえ27度にもなり、すでに夏のような畑で、
たくさんの新顔たちが待っていた。

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到着して、まずは神妙にレクチャー。
野菜の話になると真剣な顔になる原さんが、少し面白い。
今年は、しゃきしゃきしたさわやかな食感の
四川四葉胡瓜(しせんすーようきゅうり)を
はじめて作るのだという。

八百辰は市場お仕着せの商品を決まったように並べ、
または、御用聞きに終始する
従来の八百屋稼業に見切りをつけた原さんが、
一方では業務用直販で市場を自力で確保し、
もう一方では、契約農家に全量買取を保証して新商品や減農薬農法
を勧めて、独自商品を手にしたところに
始まりがあり、未来もある。
無論、八百屋でありながら、契約畑では自力で収穫し、
朝採りの野菜を、朝のうちに神奈川・東京のレストランやホテルへ届ける収穫〜物流システムも重要な要素だ。

販売先が400件ほどになった今、
原さんの関心は「拡大」ではなく、
質の「向上」にあるように思われる。
新野菜の導入提案も大事な「向上」作のひとつだ。
「新野菜好き」の元組合長三森さんや、三浦大根の青木さん、葉野菜名人の蛭田さんなど、そうそうたるメンバーが作る野菜の種類はなんとそれぞれが20〜30品目にも及ぶという。

当方のメンバーは店長の708君、
エコと石鹸つくりが大好きなkiyokaさん、
手作り大好きなchieさん、
それにわたし。
わたし以外は20代で、都会育ち?なので、
畑と接することも、野菜を作るということも
新鮮に感じているように見える。

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早速畑へ来たが、胡瓜はまだ苗床から出たて。
きれいに作りこまれた畑に、整然と並ぶ四川四葉胡瓜。

胡瓜には春栽培の黒いぼ系、夏栽培の白いぼ系がある。
昔はいぼは黒いもので味の濃いものだったが、
現在では、皮が薄く果肉が厚く歯切れのよい白いぼ系が、
見た目の良さと食感のよさで市場を制している。

四葉(すーよう)は中国華北系の胡瓜で、
四葉(よつば)が出たころから結実するのでその名がある。
「四川」とつくのは、四葉の改良種であるらしいが、
詳細は聞き漏らした。

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定植して2週間ほど、小さな花実ができている。
が、まだこの時期の実は茎の成長を妨げるので、
摘んで(摘果)しまう。

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八百辰の社員は、こうした摘果作業も日々行い、
八百屋というより
流通を握った農家、のようでもある。

わたしも、少しお手伝い、で摘果した。
もちろんすぐに味見(*^^)v。

堅く漲った表皮に歯が当たった、と思った瞬間、
さく、ではなく、ポン、と割れるように実が砕け、
中から胡瓜くさくない、若さを感じるさわやかな果汁が広がる。
なるほど、しゃきしゃき、とはこれだな、
これほど小さくてこの「しゃきしゃき」なら、
大きくなっても、ひねたりしないまっすぐな「しゃきしゃき」
でいてくれるだろう。

これでもか、とつむぎだしてくる執念のような
新顔の畑のお宝、6月の出荷が楽しみ、楽しみ。



有限会社八百辰 代表取締役 原 泰郎
〒238-0221 神奈川県三浦市三崎町六合322-2
Tel : 046-882-1870
Fax : 046-882-1882
http://www12.plala.or.jp/yaotatu/

端緒論2 位置 近代の汀で〜近代の果てのより深い孤立分断の時代

2008年05月29日

産業資本主義から幻想資本主義へ

より深い孤独と分断について

1991年、バブル崩壊は
日本〜世界(この場から連なる同時代的世界)が、
「近代」から、次の時代へと踏み込んだことを象徴している。

資本制社会が、原始共産制の香りを残した産業社会から、
高度に「幻想」化、純化された、
いうならば、「資本=貨幣」オリエンテッドな幻想資本主義社会
またはメタ資本主義社会
というようなものへと転化した、大きな節目だったのではないか。

1980年代、個人消費が、設備投資を上回った時代に、
「よりよい消費」がよりよい生活の価値であるとする意識が育った。
生産や他者への貢献などによる社会・共同への自己同一化ではなく、
閉じたサイクルの中で消費を生活目的とする消費の自己目的化に陥った個人は、
何か客観化された目的のために生きるのではなく
分断されたこの生を生きることを目的として生きる、
という自家撞着に陥った。
(生きるために食べるのではなく、食べるために生きることさえある、というように、
または何かのために生きるのではなく、よりよく生きるために生きる、というように…)
そのとき、「世界」や「時代」や「社会」は、
いやいやをしながら、身を回転させて彼岸のものになった、
であろう。
個人は閉じたサイクルの中にあまりの発展性のなさに、ますます深く絶望して、「他者」への通路を自ら閉じた、であろう…。

経済活動は「消費」そのものを起源とも、目的ともする
というような閉じたサイクル(消費資本主義)に陥っているのではないか。
(人々は出口のない「消費生活」の中で事故閉塞に陥っている、のではないか)
したがってまた、経済は意識せず、ただ単に自身の自律的な自己増殖の欲望に従って、消費のないところ、すなわち貧困、な市場を、回避しようとしているのではないか。

そこでは金融システムが増殖して、
かつて「投資」であったものは「投機」へと自己増殖し(幻想となり)、
産業資本のオバケである石油メジャーも穀物メジャーも、
それぞれの「市場」の価格政策からも需給からも影響力を排除されつつあり、
市場の第一人者ではなくなっている。
すでに、資本主義の土台であるはずの「金融」が第一人者であり、金融は期せずして産業を媒介せずに直接「利益」を生み出す装置(金融資本主義)となっているのではないか。
(経済も自己閉塞に陥っている)

さらには、インターネットによる「通信」の多層化、高速化と、
現実と内部世界との境界があいまいな擬似現実の出現は、
経済活動をも、
手とモノが生み出す厳然たる物質の世界のものから、
観念の世界(幻想)にも踏みこんで「市場」(経済原理の貫徹される場)としているのではないか。

そこでは頭上を覆う「近代」の重たい、個人支配の秩序の網が晴れたように感じられ、
明るい日の下で輪郭のはっきりした個人が自由に振舞っているように見える。

しかし、わたしたちは、同時に「モノ」が自分の自由にならないことも、
「他者」がなお一層遠ざかって見えることも感じている。
「食」さえ、わたしたちの手の内にはなく、
わたしたちは人の顔の見えない得体の知れないものを口に入れなければならない。
哲学は一人ひとりが別々に用いる多用な用語へと分断され、この世界は統一された全体のようでありながら、諸個人の認識の内に違った顔で現れる。

わたしたちはひとつの事柄について語りながら、互いにまったく違う事柄を、同じことのように語っている、かも知れない。
あるいは、まったく別の次元にあるものを、共通の認識のように、
語っているのに過ぎないかもしれない。

わたしたちは、もっと深く分断され、もっと深く孤独を育てているのではないか。
これはポストモダンの時代がわたしたちに強いる錯視の幻想なのではないか。
かつて鮮明だった個と共同との「背理」または「逆立」は、一見解消されたように見え、
個人は直接に共同性に踏み込むことができるというような解放感を味わいつつ、観念の領域にも踏み込んだ幻想化した経済システム(幻想資本主義・メタ資本主義)によって容赦なく分断され疎外され、
排除されているのではないか。



  ※    ※    ※    ※


わたしは書いている。

 食は
 個体として生きるための糧でありながら、
 身体的健康のツールへ
 自己確認のツールへ、
 さらには個と共同をつなぐコミュニケーションのツールになり、
 「上部構造」にかかわる領域のもの、となって、
 食育などといわれ、レストランに星が付き、
 一方、家族はばらばらになり
 生産者は窮迫して農は解体され…。
   --My tasty TESTKITCHEN 初発の位置から――
    食を通して、世界を凝縮し、向こう側へ突き抜けるまで
    「未来への超越的おいしいレストラン開始宣言」
    http://eurekablog.seesaa.net/article/72413417.html


「修辞的な現在」とは、孤独を癒すための個人の自己防衛的な仮象の自己粉飾であり、
インターネットが提供するSNSとは、分断を手早く回復したと感じさせる、より深く精緻に仮構された幻想資本主義時代の仮構の共同性に過ぎないのではないか。
古来の共同性は解体され、抑圧からは解放されたが、
剥き出しになった個人は、よりくっきりと「個人」であり、
それゆえに直接に、無防備に、
外部の異和、に衝突することとなって、
悲鳴を上げて庇護を求めているのではないか。

また多くの個我が、超近代的な異和に衝突して、無防備に倒れてゆくのを、
わたしたちの近代遺制である国家=法は
犯罪にまで貶めているのではないか…。

それが、近代の個人開放の果てにある
わたしたちの位置から見える風景、なのであろうか…。
これが、わたしたちの、位置、であるだろうか…。

    2007年5月2日初稿 5月29日補筆

魚ゆ@東麻布のこころにもやさしい普段着の格安行列ランチは風土の味わい

2008年05月12日

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十番公園の八重桜。渋谷川の畔というより、首都高の足元に
それでも精一杯華やかに咲き誇る。

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東麻布も、喧噪な十番を離れて、渋谷川あたりとか、
イースト通りあたりは、そこだけゆっくり違う時間が流れている。
鄙びて、日向の匂いがする。
今頃の季節に、だけ、かも知れないが、散歩に向く。
(昼食値段も、この辺では、驚くほど安い)

が、ひな、ではなく都会の乾いた風と固い影がある。

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地元の人々に愛される「魚ゆ」は、昔よくあった魚屋さんそのままのの魚屋。
料理好きが高じて、料理を出すようになった。

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魚屋兼キッチン、兼総合バックヤードのお店の傍らに、
昼だけ、定食屋を営む。

11時を回るころから、近在の人々が並び始め
12時から13時の間は10人くらいはいつも並んでいる。

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メニューは定食6種。
700円から950円だが、このあたりでは、ちょっと高い。
周辺は、東京都心とは思えない値段だから、だ。
950円の本めじまぐろは、誰もがそうは呼ばず、
「とろ」と呼ぶ。
もちろん、大振りのトロがでん、と入っているからだ。
でも、12時を回るころには、売り切れることも多い。

今日ももタッチの差で売り切れ…残念、くやしい。

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結局850円のまぐろ刺身定食に、
毎日数種用意される小鉢100円から、筍の煮物。

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刺身はとても大きい赤みが6カン、
左下にはいつもオマケの甘エビやタイの切れ端が乗っていて、
これが結構楽しみ。

マグロはほおばると口いっぱいに、やっと収まる。
味噌汁も、おひたしもやさしい、昔の味わい。
ご飯はやわらかめで、やはりやさしい。
(固めに炊くのは、東京の、悪しき近代のような気がする。
実家ではやわらかめのやさしいご飯だった。
ことに、新米のすこしやわらかめのご飯は格別に甘く、うまい)

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筍も、やさしい出汁と、やさしい醤油で、
しかし、しっかりと煮てある。
その家の、やわらかい空気が、
もっといえば「母」の暖かい気分が濃密に味わえる。
気取らず、心安らぐ味。
(「食材を生かす」と称して、固いだけのものが筍であるかのような
高名な「日本料理」屋の浅薄な近代料理思想を痛撃する、
これが風土の味わい、というもの。


自然の食材とやさしく向き合い、
食べる人(=家族)をやさしく思いやる生活を思い出させる、
やさしさのにじみ出た
風土の味、普段着の深い味わい。

おばあちゃん、おばあちゃんの元気がみなを元気にしているよ。
親父さんもお母さんもありがとう、ごちそうさま。


posted by foody at 06:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | おいしい店(東京)

端緒論3 位置 近代の汀で〜2 拡張主義から多主観的、超主観的へ。時代の最後方から。

2008年05月03日

資本制の自己増殖と、近代自我の自己拡張の思想

産業資本主義は、
個人と個人との物々交換に端を発し、
剰余価値=利益というわけの分からない悪魔のようなものに
曳き摩られるように、自己増殖しこの世界を変えてきた。

生産は問屋制手工業〜工場制手工業〜自動化〜と変貌拡大して、
量産化・複製化・非自然過程化することになって、
自然人の手のとどかないもの(幻想)になった。
「経済」がもたらす自己疎外、というべきであろうか。

(食に戻っていえば、わたしたちは、この幻想化した資本制システムが
もたらす経済原理の必然の結果として、
「幻想」化した得体の知れない食べ物を、このシステム=幻想から与えられて、生きている。
非自然化した要素=農薬や薬品や異物や毒物など非適切食物と、
非人間化した要素=偽装品や劣化品や低品質品など意図的な反社会的食物である)


今日では、自然人が手の届く範囲から、
この幻想過程に参加することを「起業」と呼んで称揚する。

伴って、運搬・交通・通信・その他の産業システム(と、その反映である生活システム)は高度な技術革新とシステム化(複合装置化)によって、
速度と量と安定性と人間工学的快適性を増し、
それゆえ個人の自己調整の範囲を超え、
おそらくは生理学的にも自律神経の領域をはみ出したもの(幻想)
となっていよう。
技術革新は最終的に、肉体から個我(自己意識を持った個人)の場所を奪い取り、または個我の場所を破却し、個我そのものをさえ破壊するかも、知れない…。
少なくとも今日、自律神経の失調をもたらす一因ともなっていよう。
経済がもたらす自己疎外の、その2、であろうか。

わたしたちは、自然的な環境条件の下で、自律神経系の機能を回復し、
あわせてカタルシス(精神的浄化)状態を体験することを
「癒し」といってみたり、そのような「場所」をリゾート、といったりする。

一方、そのような原始から近代への総過程は、
個人の自己意識にとっては、
呪術的呪縛と古代共同体の桎梏を打ち破り、
自己を世界に投影するように拡大しようとする過程であったろう。
(古代からハイデッガーやサルトルまで)

資本の増殖と貨幣の浸潤は加速度的に進行し、
自己意識は過去へと向き合って、自己解放を目指していた。
「近代」の精神は、「近代」がもたらす孤独よりも、
過去の呪縛を主要敵として戦ってきた、であろう。

「身は現在に反転し
 こころは未来を語れない」

しかし、自己を拡張していっても、資本と貨幣と幻想の増殖に、貢献こそすれ、
それらを追い越すことは、ついに、できない。

資本と貨幣とそれらの幻想の自己増殖システムが、増殖する範囲でのみ、
わたしたちは「自己」を拡張しうる、のだろう、から。

(一体どこまで、
 行けばいいのか…)

多く、未来の希望のなさに、打ちのめされ、
倒れてゆく個我があった、であろう。
「自己投企」とは、希望のない未来に悄然として消え入るばかりの個我に、
無理やりに「希望」をこじつける文字通り幻想の哲学なのではないのか。

(そりゃ、人間は確かに、どんな理由ででも生きられるさ…。どんな理由でも死ねるように、ね。自己投企論ではそのような循環性を逃れることはできないで、あろう…ハイデッガーよ…)

あまつさえ、個我の希望のなさに慄然として、
近代的または古代的「党派」に自己解体的に自己投企していったものたち…。

<1973年、産業資本主義の頂点の時代の始まりに、
時代に扼されるように名辞を失った死者たちを点鬼簿に収め
死者としてともに生きる道、をわたしは選んだ、のであったかもしれない。

そこから、そこから、だ>


  ※    ※    ※    ※

自己限定から始まるもの

産業資本の増殖は、鬼っこのような金融の肥大化を生み、
サービスや商業や通信や交通やを日常の個人の生活の水準まで「産業化」し、
もっと肥大化した個人の手の届かないシステム=複合システム経済(幻想資本主義)へと移行した、であろう。

「近代」は近代自身によって超克され、
近代精神は全否定に近いくらい惨めに否定された、であろう。

近代の終わりから始まる、われらの時代は、
限界を知った自己が、
超越論的な他者と対峙する共同主観的(間主観的)世界の時代であるか…フッサールよ…。

いやいや、主観は主観として自立しつつ併在するわけで、多主観的、なんだよ、とか、併在するだけでは「当然に」異和として衝突するので、客観的な主観、として自立しながら主観を超えたものへと転位する超主観(=超越論的主観)だよ、なんて呟きながら、
わたしたちは手の届く限りの手持ちの資源をすっからかんにして、
「食」を選び取った。
そうして、そのこと(自己限定)によって、
他者と対等な危うい均衡を保って連なる道もあること、を知っている。

わたしたちは、深く孤立を感じ、
孤立のうちに食のカタルシスと出会い、
孤立のうちにも他者にも内在する食のカタルシスを知っている。

そして当然普通に手の届く範囲だけで、
自然人として<食>にかかわろうとしている、であろう。
それは間に合わせや、背伸びであってはならず、
<自然(あるべき当為としての自然)なあり方>性が貫徹されているもの
でなければならず、
当然、資本と貨幣が強いる多くの、根源的な矛盾にさらされながら、
堪えながら、
資本と貨幣にさえ超越論的に「相渉る」まで、
続けられる、であろう。

あらゆる仮象を拒絶して
この、いわば時代の最後方である場所から、
始まらねば、ならぬ。
あるいは、「多くを語りながら、何事もなさなかったもの」
の印象を残すことになっても、である。

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