Salsiccia! サルシッチャの話6 サルシッチャの幸せのアーリオオーリオのパスタとちょっと店名の「!」の話

2008年04月18日

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昨日の記事にサルシッチャのポモドーロのパスタを激賞したら、
気を良くしたか、
またまた賄いにサルシッチャパスタ登場!である。

こんどはアーリオオーリオのシンプルな塩味にサルシッチャ!、大胆な枝ごとローズマリーの香りつき、である。

(!をつけるのは、
試作の折にサルシッチャを食べたわたしが、
あまりのうまさに
「salsicciiiiiii〜aaaaaa〜〜〜!!!」
(さるしぃぃぃぃっちぃぃぃああああ〜〜!!!!)
と声に出してしまったからである(^^ゞ
(最初の感動を思い出す。
あのときの感動は、店ができてからも、
何度も、より大きく、深く繰り返されている。
何度も食べて、だんだん感動が深く大きくなるなんて、
なかなかできない経験!なんである)


店名を考えているとき、
サルシッチャどう?サルシッチャもいいよね、いいよね〜、いいよ〜〜と、
わたしたちの情熱的サポーターであるオカダさんが、
相当くどく、しだいに断定的につぶやき、
それを聞いたわたしは、あの味を思い出して、またまた、
「Salsicciiiiia!!!!!」
と、叫んだ(いや、普通に言っているつもりだったが、言い方が強かったようだ)らしく、
「!だね、!をつけよう、店名に」という話が、あっという間にまとまってしまった。
(うーむ、つけるほうの気持ちは分かるが、
この気持ちは伝わるのかしらん???)
で「!」は、何度食べてもますます深く大きくなる感動の味、なのである。
!の輪を広げよう!


で、サルシッチャのアーリオオーリオの話である。
アーリオaglioはにんにく、オーリオolioはオイルである。
オリーブオイルで、にんにくを焦げないように丁寧にいため、
にんにくの香りをオリーブオイルに移す。
これがアーリオオーリオ、というわけだ。
代表的な、アーリオオーリオペペロンチーノという
スパゲッティは、にんにくとオリーブオイルと唐辛子(ペペロンチーノpeperoncino)とパセリだけの
あまりにざっかけない、あまりにシンプルな料理なので、
「絶望」とか「夢も希望もない」とか言われる。
まあ、湯漬けとかしょうゆかけご飯とか、普通のおにぎりとか、
そんな感じであろうか。

しかし、映画「マーサの素敵なレシピ」では、
母をなくして食べることをやめた孤独な少女リナに、
再び生きる希望と勇気を与える、
この上なく美味しい豊かな食べ物だった。
実に、食べるということは、人を生かす、ほどに豊かな力を持つものなのである。

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サルシッチャは力に満ちて、旨味を皿じゅうに噴出し、
オリーブオイルがそのいきり立ったものを
深く抱きとめる。
にんにくは名脇役よろしく、旨味をしっかりしめる。
ローズマリーの爽やかな香気はここをを落ち着かせ、
肉の味わいを一段と清やかに引き立てる…。

サルシッチャのアーリオオーリオの絶望ではない、
豊かな豊かな幸せのスパゲッティ。
メニュー化未定。
わたしは、手打ちのパスタでも十分いけると思うが、
708君は、手作りでない乾麺のほうが合うと考え、
手打ちパスタをを使うことに抵抗がある、かも知れない(ので、
メニュー化未定、なのだ)。

もちろんサルシッチャはいつでもあるし、
にんにくもオリーブオイルも常備している。
(もしも作ってくれたときには、1500円よりは、
安くなるよね、きっとぉぉぉぉ!!!!

■Salsiccia!DELI
 目黒区上目黒1-5-10 中目黒マンション112
 TEL&FAX 03-3794-3648
 URL http://www.3648.jp/
 営業時間 基本的には11:00〜23:00(15:00〜18:00は結構閉めてます)
 休日 4月中は毎週月曜日(結構適当ですが、仕込が追いつかなくて休んでます)




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Salsiccia!サルシッチャの話5 パスタにもサルシッチャ

2008年04月17日

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ポモドーロにサルシッチャ。
最高なんである、これが。

ポモドーロはにんにくをすこしだけ控えて
トマトの爽やかな酸味と旨味が広がる。
たっぷりと、たっぷりと、スープパスタになるほどたっぷりのトマトが
海みたいな、
トマトのふくよかな幸せ。
そこにサルシッチャの、
深い強い旨味の波が寄せてくる。

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サルシッチャはいったんケーシングしてすこし風干ししたものを
再びほぐして使う。
ケーシングでなければならず、風干しでなければ、ならない。
それ以外では、このようにはならない。
自然とは、このように不可解にわたしたちに
押し寄せ、横殴りにしてゆく、ものだ、ろう。

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昨日のまかないに、この、パスタは登場した。
たまたま営業に来ていた
○○コーラの××さんも、「共食」した。

飲料であろうと何であろうと売れればよいというものでは
ないだろう。
人は、ともに食し、ともに「経済」を乗り越えて
人、として感じたりしゃべったりしてゆこう。
超越論的な他者、として。

ポモドーロのパスタ、サルシッチャ入り メニュー化未定。
でも、ポモドーロもサルシッチャもいつも店にはある。
食べさせて、と、いってくれれば食べられるはず、である・・・。
仮想の、ポモドーロサルシッチャ入り、たぶん1500円ほど。
たぶんね。

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 目黒区上目黒1-5-10 中目黒マンション112
 TEL&FAX 03-3794-3648
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2・26事件と昭和経済史への註5 近代経済史概括年表

2008年04月17日

■江戸期
(江戸第1期 前期前半 1603年〜1651年 戦後復興から幕藩体制確立)
(江戸第2期 前期後半 1652年〜1703年 上方商業経済確立 元禄時代 第1次商業化)
(江戸第3期 中期前半 1704年〜1765年 財政危機克服 相対停滞期 新井白石、徳川吉宗)
(江戸第4期 中期後半 1766年〜1786年 発展拡大期 田沼意次第2次商業化 問屋制手工業)
(江戸第5期 後期前半 1787年〜1840年 寛政縮小期から文化文政爛熟頽廃期 消費拡大第3次商業化)
(江戸第6期 後期後半 1841年〜1868年 混迷解体期 )
 ※江戸期についてはこちらを参照してください。

■近代
(第1期 1968〜1890 産業革命の基盤形成期)
1968年  明治元年 明治維新
1890年 明治23年 万円)輸出9千万円 世界20位(清国は2億6千

(第2期 1891〜1911 成長期 紡績・繊維発展期・重化学工業建設 関税自主権回復)
1894年 明治27年 第1次条約改正(法権回復)
1910年 明治43年 日韓併合
1911年 明治44年 第2時条約改正(関税自主権回復)

(第3期 1912〜1926 発展高揚期 世界の工場へ)
1914年 大1次世界大戦 対華二一ヶ条の要求
1918年 大正7年 世界7位の経済規模
1920年 大正9年 反動不景気(慢性化してゆく)
1921年 大正10年 ワシントン軍縮会議 東京工業倶楽部落成(財界確立)
1923年 大正12年 関東大震災 甘粕事件
1924年 大正13年 宇垣軍縮 

(第4期 1927〜1930 相対停滞期)
1927年 昭和2年 金融恐慌
1928年 昭和3年 3.15事件(共産党大検挙)
1929年 昭和4年 世界恐慌 貿易大幅縮小、不景気による米価・物価下落 4.16事件(共産党大検挙)

(第5期 1931〜1934 不況回復期 戦前経済の混乱とピーク、反動的統制経済開始)
1930年 昭和5年 不況深刻化 ロンドン軍縮条約 金輸出解禁
1931年 昭和6年 満州事変 3月事件 重要産業統制法 米価1929年の約半分に 10月事件 金輸出再禁止 高橋是清積極財政開始 米不作
1932年 昭和7年 5・15事件 不況沈静化 重化学工業発展
1933年 昭和8年 米穀統制法 外国為替管理令(外貨を政府が割り当て)
1934年 昭和9年 石油業法 日本製鉄株式会社法 米不作

(第6期 1935〜1949 反動的縮小・解体期 暗黒の15年)
1936年 昭和11年 2・26事件(陸軍統制派支配権確立) GNP戦前最高(126億ドル 1ドル=2.1円) 米不作
1937年 昭和12年 盧溝橋事件(日中戦争)計画経済(官僚統制による「革新」政策=統制経済提唱)
1938年 昭和13年 国家総動員法(統制派・革新派官僚独占支配確立)
1946年 ニューディーラーの社会主義経済(補助金・融資行政)

(第7期 1955年〜1972年 再建・高度成長期 重化学工業化)
1950年 昭和25年 ドッジプラン実施(自由経済化)
1955年 昭和30年 GNP昭和11年を超え史上最大「もやは戦後ではない」宣言
1969年 米の減反開始

(第8期 1973年〜1990 爛熟成長期 消費大国化 近代主義のピーク)
1973年 狂乱物価、賃金上昇率30% 地価上昇率32.4% 石油危機 ドルショック 
1974年 不況
1978年 外食の産業化確立
1980年 貿易摩擦 自動車の輸出自主規制 DCブランド 居酒屋ブーム
1985年 貿易摩擦 内需拡大
1988年 東京地価上昇率65,3% 大阪19.8%
1990年 東京地価上昇率7.2% 大阪53.9%

■現代
(第1期 1991年〜2004年ごろ 解体・停滞・再編期 失われた10年)
(第2期 2005年ごろ〜多分2015年ごろ ソフト化・個人化・多様化・金融化 再編・基盤拡大期)
(第3期 多分2016年ごろ〜 成長期)

2・26事件と昭和経済史への註4 統制派時代の失われた14年

2008年04月16日

二・二六事件の意味

統制派による国家主導時代――失われた十四年

二・二六事件の結果は皮肉にも、決起した青年将校たちの意図とは逆に、皇道派勢力が壊滅し、東条英機らの主導する統制派が軍の中枢を握った。そして、陸軍大臣現役武官制度を復活させ、予備役に編入された皇道派の大物の復活の道を断ち、統制派支配を確立すると政治にも経済界にも軍の影響力が拡大し軍部独裁体制(軍国主義)が作られてゆき、盧溝橋事件を契機に日中戦争へと突入してゆく。
領袖の東条は「陸軍を抑えられる唯一の人物」として一九四一年(昭和一六年)十月、内閣総理大臣兼内務大臣兼陸軍大臣に就任、陸軍内規を変更までして大将に昇進する。 官界でも星野直樹・岸信介らの統制派が政府を主導し、「国家総動員法」をはじめとする日本的統制経済と高度国防国家(戦争のための国家体制)が現実になって行く。
自由や創意を失った経済活動は停滞してゆき、軍需を除く生産規模は下がり始める。GNPも名目は増えるが、実質的に対米比では一九四一年まで相当程度に低下し格差が拡大した。
しかし、「今なら戦争継続可能(今を逃せばもっと格差が開き戦争継続は困難)」とする統制派官僚の作成した甘いデータを持って、東条は反対を押し切り、無謀にもアメリカとの開戦に踏み切る。統制派の「高度国防国家」もまた、現実の認識を欠いていた…。
その後、東条は外務大臣・文部大臣・商工大臣・軍需大臣も兼務し、さらには慣例を破って参謀総長にも就いた。統制派と東条は、望んだ通りの権力を一手に握り、願った通りの独裁支配を実現して、破滅的な戦争を推し進めた。

敗戦後、軍人はほぼ排除されたが、しかし岸信介などの戦犯を除いて統制派官僚たちは生き残り、日本の統制社会は続いていた。経済政策が転換するのはドッジラインによる経済自由化政策が始まってからであった。一時的な後退はあったが、一九五〇年(昭和二五年)朝鮮戦争特需もあってようやく経済は上向きになった。
一九五五年(昭和三〇年)「もはや戦後ではない」と経済白書が誇らしげに言ったのは実に昭和十一年のGNPを実質的に超えたから、であった。二・二六事件以降ドッジラインまでの十四年間(昭和十一年〜昭和二四年)の統制派時代は時代の流れを大きく押し戻し停滞させた、失われた十四年、といえよう。そして旧統制派(革新派)官僚は、何事もなかったかのように高度成長をも担当し、戦後日本の保守本流を形成する。

2・26事件と昭和経済史への註3 皇道派と統制派と革新官僚

2008年04月16日

軍部に育つ昭和維新思想―背景としての軍部の派閥抗争と思想

桜会

不況と農村の危機が続く中で軍部には、軍縮による昇進遅れに対する不満や、多数を占める農村出身者の共産主義化への危機感が根強くあり、一方、純粋に農村や労働者の窮状を救うべきと考えるものも多く国家改革思想が芽生える。大川周明や北一輝らの国家社会主義の影響も広まる中一九三〇年(昭和五年)には、陸軍内に「国家改造を以って終局の目的となしこれがため要すれば武力を行使するを辞せず」とする急進的国家主義秘密組織、桜会が結成された。
翌年三月には宇垣一成陸相を首班とする軍部独裁政権樹立クーデター計画が明るみに出た(三月事件)が、桜会は軍幹部にまで会員を獲得しており処分は軽微なものであった。十月には満州事変の軍主導展開を狙って、荒木貞夫陸軍教育総監本部長を首班とする計画(十月事件)が明るみに出る。
桜会は軍主導の国家改造を目指す急進的青年将校運動の底流となった。十月事件の後は事実上解散するが、永田鉄山や東条英機は陸軍主流派たる統制派を形成し、青年将校は純粋な気質の心情的急進派として皇道派を形成してゆく。

統制派と皇道派

統制派は陸軍内の開明派であり近代化派である。また岸信介・星野直樹らの満州国経験者の「革新派」と呼ばれた統制経済派官僚と通じていた。英米を仮想敵とし、ソ連との不可侵条約締結を唱えた。中心となった永田鉄山は第一次大戦で日本軍の軍備の遅れを痛感し、軍主導で(ナチスドイツのように)社会を統制して軍備を近代化し、産業を統制して「高度国防国家」をつくることを目指した。桜会にも参加し中心メンバーの一人といわれる。軍務局長として陸軍の中枢にいた一九三五年(昭和十年)陸軍省の自室で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。その後は東条英機がトップとして主導することになる。
皇道派は荒木貞夫・真崎甚三郎の両大将をシンボルとしていただく青年将校グループである。荒木は反ソ反共を唱え対ソ決戦を主張し、そのために「君側の奸」を打ち「天皇親政」の実現を唱えた。一九三一年(昭和六年)荒木は陸相に就任すると、自派の人材を登用し自宅を青年将校たちに開放して多くの共鳴者を集めた。しかし、その思想には現実的な国家運営や経済運営のプランはなかった。集まった青年将校らは心情の純粋さゆえに直情的な行動が多く、政府財界からは危険視されていた。
※満州事変の張本人といわれた石原莞爾は、皇道派でも統制派でもなかったが、政策的には「革新派官僚」とごく近く、「計画経済」を主導した。


2・26事件と昭和経済史への註2 昭和初年代

2008年04月16日

 「大学は出たけれど…」不況下の昭和初年代―経済社会的背景
一九一一年(明治四四年)悲願の関税自主権を回復し、「完全独立」を勝ち取った近代日本はその後順調に発展し、第一次世界大戦期には好況に沸き、一九二〇年(大正十年)には繊維産業を中心に世界七位の輸出高を持つ「アジアの工場」といわれるまでになった。
このころには「大正デモクラシー」といわれる民主主義思想や国際連盟に象徴される平和思想、社会主義・共産主義思想も広がり、労働運動や農民運動も組織されてゆく。政府はこうした自由化・民主化思想には一九二五年(大正十四年)普通選挙法と同時に取締りのための治安維持法を制定、時代は自由と統制の間を激しく動いてゆく。
同時に日露戦勝以降、日本軍の不敗神話や、神道思想の影響を受けて軍隊を神聖視する「皇軍」=統帥権(天皇が内閣を経ず直接陸海軍を統帥する権能を持つ)の思想も醸成されて国家主義思想に繋がってゆく。
官僚や軍部には、巨大化した財閥の横暴や、軍縮を主導した政界・官界・軍内の欧米協調派への反感も強く、経済や社会を国が(具体的には官僚と軍部が)統制しソ連的な経済建設をすすめるべきという国家社会主義思想(統制派)もひろがって、満州の開発・経営は軍部と国策会社が独占することとなった。

昭和になると、一九二七年(昭和二年)の金融恐慌や一九二九年(昭和4年)の世界恐慌の影響で深刻なデフレ不況(輸出が減ってモノがあまり物価が極端に低下した)に見舞われ、多くの中小企業が倒産、就職難と失業の時代がくる。「大学はでたけれど」(小津安次郎監督)という映画がヒットして、題名が流行語になった。しかし、まだまだ生活には明るさがあり、映画やカフェが絶頂でもあった。

  『昭和八年は満州事変直後で、軍需景気でネオンは輝いて、ダンスホール、カフェ、バー、キャバレーが満員なことこんにちのようだった』――山本夏彦『「室内」40年』文春文庫

経済全体としては満州事変の軍需景気や積極的かつ自由経済派の高橋是清のバランスの取れた財政の成功により、一九三二年(昭和七年)以降大財閥を中心として回復傾向に転じた。二・二六事件の起きた一九三六年(昭和十一年)には実質的にピークに達したと推定される。(戦前最高の実質的GNP一二六億ドルを達成したとする見解もある)※一九三六年の政府一般会計支出は二十二億八千万円、アメリカの財政支出額は八四億ドルである(一ドル=約三円五十銭)。

一方農村では世界恐慌の影響で米価が急落したのに加えて、一九三一年(昭和6年)の大不作が決定的な打撃となった。農家の収入は最盛時の大正十四年の三分の一になリ、さらに翌年以降も不作が続いてしまう。そのため、娘の身売りなどが続出する「壊滅状態」が続き、一九三五年(昭和十年)には小作争議の発生件数が史上最高となった。
社会の不公平感が募る中、五・一五事件で政党内閣は終焉し、政府は、以降急速に国家主義化(統制派化)し、満州事変で国際的な孤立を深め、テロが頻発した。世情騒然となる中、運命の昭和十一年を迎える。

2・26事件と昭和経済史への註1 パトスとしての革命〜「2・26事件」概略と安藤と磯辺

2008年04月16日

本稿は2008年4月8日公演された、メイコーポレーション主催モノオペラ「悲嘆(GRIEF)」のパンフレット用に書き起こされた原稿をもとに、心性(パトスとエトス)と経済を一体として整理した昭和史(経済精神史?)へと加筆し改稿してゆく意図でアップしています。
以下のことに触れ、随時改定してゆく予定です。
1日本近代史が古代的、封建的心性と遺構を多く含むものであったこと
2大正7年米騒動をもって近代的心性が「公認された」こと。
3昭和初年代に封建特性を含む近代主義と古代的心性が分裂し、日本近代の近代化運動が始まったこと。
3高度成長を経て1969年安保・学園紛争〜73年早稲田紛争(ドルショック・オイルショック)をもって封建的心性は解体され近代的自我期に入ったこと。
41991年バブル崩壊〜1993年米不足をもって日本近代の心性は急速な自己解体期に入ったこと。
52004年ころから別な新しい経済社会構成の時代に入ったであろうこと。


二・二六事件の概略――皇道派青年将校の「昭和維新」決起と天皇の「不快」

 一九三六年(昭和十一年)二月二六日未明、前夜からの降りしきる雪の中を、陸軍皇道派の影響下の青年将校たちは歩兵第一連隊、第三連隊などを主力とする計一四八三名の兵をひきいて「昭和維新」に決起した。首相官邸、警視庁などを襲撃し、高橋是清蔵相など四人の政府要人と六名の警察官を殺害、霞が関、永田町、三宅坂、赤坂にかけての地域を占拠した。
 決起将校らは陸相官邸を包囲し川島陸相に面会、「決起趣意書」を読み上げ、「要望事項」を手渡して「速やかに天皇陛下に奏上し後裁断を仰ぐ」ことを要求した。九時三〇分、川島陸相は天皇に拝謁、決起将校たちに同情的な説明をする。しかし天皇は反乱軍を「暴徒」と呼び「速ニ事件ヲ鎮定スベシ」と厳命する。
午後一時になって「蹶起ノ趣旨ハ天聴ニ達セラレアリ」などと内容を偽装した陸軍大臣告示が示され、青年将校たちは天皇聖断の希望を感じる。さらに、陸相官邸に集まった陸軍最高幹部の参議官七名全員に、「昭和維新」の断行を要求、信奉する真崎陸軍大将に事態収拾を一任し、期待を持ち続けた。鎮圧のための「皇軍相撃」(日本軍どうしの戦闘)を避けたい幹部たちは心情的な理解を示すが、裏では鎮圧の準備が進められ海軍は東京湾に第一艦隊の戦艦長門以下を急行させる。
翌二七日午前三時には戒厳令が発せられ、反乱部隊を原隊に復帰させよという「奉勅命令」が出た。穏便な解決を図ろうとする陸軍幹部はこれを決起将校たちには伝えず、武力行使を避けていたが、適切な解決策を見出すことができず時間ばかりが過ぎて行く。
天皇は事態が指示通りに進まないことに苛立ち「朕が最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」とか「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、ソノ精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と強い不快感を示し、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ。此ノ鎮圧ニ当ラン」とまで激しく鎮圧を求めた。
  二十八日には、収集のための動きが活発となり、戒厳司令部もようやく本格的な武力制圧の準備を始め、二万四千の戒厳部隊の出動が始まる。それを知った決起将校たちは全員自決をしようと話すが、決起に最後まで慎重だった安藤大尉の「最後まで反対していた僕が、決起したのは、最後までやり通す決意ができたからだ。僕は僕自身の決心をやり通す」という言葉を聞いて思いとどまる。
食料は届かなくなり、夕刻には思想的指導者とされる北一輝が拘束された。維新実現の道は閉ざされてゆき、次第に決起部隊にも動揺が始まる。
二九日午前五時十分、戒厳司令部から討伐命令が出され、八時三十分には総攻撃が開始されることとなった。有名な「勅命下る 軍旗に手向かふな」のアドバルーンや「下士官兵ニ告グ、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ。抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル。オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」のビラが撒かれた。

『そのころ、飛行機が宣伝ビラを散布して飛び去る。下士官、兵にそれが拾い取られて、手より手に、口より耳に伝えられて,忽ちあたりのフン意気(原文のまま)を悪化してゆく。「下士官兵に告ぐ、御前等の父兄は泣いている、今帰れば許される、かえらぬと国賊になるぞ」と云った宣伝だ。余は「これでもう駄目かな」と直感した』
――磯部浅一元一等主計遺書「行動記」

  早朝から投降帰順する部隊が出始めた。九時を過ぎたころからは続々と兵が原隊へ帰り始め、決起部隊の崩壊は決定的になって行く。磯辺、村中、栗原といった青年将校たちは最後に残った安藤大尉の部隊が陣取る山王ホテルに集結して、こもごもに意見を述べた。
ひとり徹底抗戦を主張していた安藤も、度重なる説得に、ついには兵を帰す決意をして、最後の訓示をして全員で中隊歌を歌う。歌声の中で銃声が響き、安藤が倒れている。
  かくて、二九日十四時までには、兵はすべて原隊に復帰し、事件は終息した。

心情(パトス)の革命――捨石の思想

皇道派青年将校による二・二六事件の思想は、自分たちが立ち上がれば後に続くものがあるはずであり、自分たちの思いは通じるはずであり、その後は「陛下の下に一切を挙げてお任せ」すれば「ご聖断」により「君側の奸」はのぞかれ、「昭和維新」の時代になる、というものだった。そして、そのために、自分たちは捨石になるという「捨石」の思想による心情的革命の構想であった。現在から見ればひとりよがりでしかなく、具体的な政権奪取計画はなく、組織的背景も大きくはなかった。
しかしながら、その心情には時代的な根拠があり、多くの共感者も獲得したのである、が、それにしても、いくらなんでもあまりに純粋すぎた、といわざるを得ないであろう。だからこそ、天皇の「聖断」が得られないとわかると、崩壊もまた速かったのであろう。
最後まで維新実現の初志を貫き徹底抗戦を主張した安藤大尉の第六中隊の帰順の場面は悲しい。

 尊王軍の幹部全部山王ホテルに来る。安藤、香田、磯部、山本、村
 中、丹生、栗原、各将校重要会議に移る。会議事項不明、ただ黙する
 ばかり。
 
 磯辺大尉「すべて安藤に任せよう。何も力を持たない吾吾(原文のま
 ま)が計画したのが誤りであった」と話す。中隊長「俺はこうなると
 は思わなかった。はじめから自重説を唱えたのは俺だ、それで最後ま
 でがんばったのは俺だ、―略―」と泣く。中隊長全員にひそかに別れ
 を告げる。「みな良く闘ってくれた。(戒厳軍と)闘えば勝ったの  だ。
 最後まで頑張ったのは六中隊だけだった。中隊長は心からお礼を申し
 上げる。
 これから満州へ行ってしっかりやってくれ」と言う。
 「中隊長も行きますか」と兵は皆口々に叫ぶ。「ウン行くぞ」と悲し
 げに答える。
   大隊長聞き「安藤、愈々俺と一緒に死んでくれ」と叫ぶ。」
 「ハイ一緒に死にましょう」とピストルを取り出す。
 自分は夢中で中隊長の右腕に飛びつく。
 磯辺大尉も後ろから抱きしめる。「放してくれ」と泣く。皆泣く。
   中隊長「前島、はなしてくれ。中隊長は何もしない。するだけの
 力がなくなってしまった。随分とお世話になったなあ。いつか前島
 に、中隊長殿は農村の現状を知っていますか、と叱られたことがあっ
 たが、今でも忘れないよ。お前の心配している農村もとうとう救われ
 なくなったなア」と涙が抱きついている腕を濡らす。
   ―略―
   出発前にあたり、副官(兵士を受け取りに来た戒厳軍参謀副官)
 はまた「兵隊は皆中隊長とお別れしなければならない」と云う。
 これを大隊長がまた止める。
 中隊長、一同をホテル玄関のほうへ向かしめ、最後の訓示を与える。
 「では皆で中隊歌を歌ってくれ」
   中隊歌を皆涙を呑んで歌い出す。中隊長歌いながら、あとへあと
 へと、退る。変だ。中隊旗を投げすてて走り寄った時は突然一発の銃
 声、中隊長が倒れている。皆かけ寄り大声をあげて泣く。 
  ―― 安藤大尉当番下士官であった前島上等兵の手記より

 安藤大尉は一命を取りとめたが、その後の軍法会議で、「首魁」十七名の一人として「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」と、死刑判決を受ける。しかし明らかに幇助にあたる荒木は告発されず、真崎は関与を否認し無罪となった。
磯部と村中を除く十五名の処刑は七月十九日執行され、磯辺と村中の処刑は民間人北一輝と西田税の裁判のため延期され、翌年八月十九日執行された。磯部は獄中で、決起の正当性と先に処刑された同志の無念、さらには天皇への「お叱り」を呪詛のようにつづった鬼気迫る手記を書き続けた。(磯部は、処刑されるとき、天皇万歳とは言わず、愛妻登美子の髪を棺に、と望んだ)

  陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません、重臣元老貴族の
 独裁国であるも断じて許せません、明治以後の日本は、天皇を政治的
 中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、もつとワカリ易
 く申上げると、天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、左
 様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しませ
 ん、然るに今の日本は何と云ふうざまでありませうか、天皇を政治的
 中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありま
 せぬか、いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治
 は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、天皇をローマ
 法王にしておりますぞ、ロボットにし奉つて彼等が自恣専断を思ふま
 まに続けておりますぞ
  日本国の山々津々の民どもは、この独裁政治の下にあえいでゐるの
 でありますぞ
 陛下 なぜもつと民を御らんになりませんか、日本国民の九割は貧苦
 にしなびて、おこる 元気もないのでありますぞ  
  ――磯部浅一元一等主計遺書「獄中日記」より

 
 

Salsiccia!DELIの塩味の新野菜、ソルトリーフ(バラフ)

2008年04月15日

P1020253.JPG
バラフ、である。
当店ではソルトリーフと呼んでいるが、これは仕入先国立ファームでの商品名。
去年あたりから出回り始めた珍しい塩味野菜だ。

水滴のように見える粒粒は、実は葉の一部でミネラル分を多く含む、
「プラッター細胞」。
食べるとやや控えめな酸味としっかりした塩味が広がる。
これだけ食べるならドレッシング不要、である。

そもそもは南アフリカ原産の「アイスプラント」という植物でである。
これを佐賀大学農学部の野瀬博昭教授が研究して栽培法を確立、
門下生の下田敏史さんが、ベンチャー企業「農研堂」を起こし、事業化した。
「バラフ」ははお二人のネーミングで、スワヒリ語で氷や結晶を意味するらしい。表面の粒粒のイメージだ。

ソルトリーフサラダイメージ.jpg
当店では、中屋孝英シェフが大きなイチジクと一緒にサラダにしてくれた。
ソルトリーフ(バラフ)だけでもうまい。
イチジクだけでもうまい。
一度に食べると、
つぶつぶの食感、塩味でイチジクの甘みが一段とたち、そして酸味が
綯い交ぜになってやってくる。
食べたことのない不思議なおいしさ。

ソルトリーフとイチジクのサラダ.jpg
ソルトリーフとイチジクのサラダ1200円。
イチジクがないときは、枇杷にするそうな。
(それもうまそう)

中屋く〜ん、わたしの分も、作ってよ〜〜〜〜(^^ゞ

■Salsiccia!DELI
 目黒区上目黒1-5-10 中目黒マンション112
 TEL&FAX 03-3794-3648
 URL http://www.3648.jp/
 営業時間 基本的には11:00〜23:00(15:00〜18:00は結構閉めてます)
 休日 4月中は毎週月曜日(結構適当ですが、仕込が追いつかなくて休んでます)
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端緒論1初発の夢と現実

2008年04月14日

何事にも初めはあり、
はじめのひとつ、にすべては内包される、か。

精神の共同体であるTESTKITCHENのはじめの一歩は、
出会い
であり、
経済的共同体である(プロフィットセンターである)
Salsiccia!DELIのはじめの一歩は、
サルシッチャであり、
立地であり、
予算であり、
不定形なデリのイメージであり、
するように不定形であったか。
(現実とは経済のことであるか…経済のことであるか…)
初発が内包する不定形は、無論、たくさんの不定形の未来を招来することとなる。

または、店とは法人格であり
店を作るとは、世界に手作りの一点の法人格を対置することに他ならない、であろうか。
このときわたしたちは全世界に対して、無防備な固体として立ち向かい、
孤独独一なるものとして固体存在の内奥から、この世界のこのようにある秩序(経済・社会)に相わたり
そのような赤裸なものとして他者と出会い直接に異和を受け止めるのであろうか…。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そのようであるとして、
なおすべては手持ちの夢と現実の資源から始まる。

わたしたちは何事か夢見て、貧しい現実の資源を取り出して出会わせる。
708さんは、
彼の中のイタリア、と未来の幸せなKITCHENの夢を取り出して見せた。
豊かなイタリアには、ダリオ・チェッキーニがいて、「普通に」一から手作りで作るサルシッチャがあり、ラグーがあった。未来の幸せなKITCHENには、断念された切れ切れの詩語と現実に相わたる強い自信と、不似合いな繊細な不安があった。
わたしは、
わたしの中の30年の累々たる死者の点鬼簿を、希望のように取り出し、
ある不可能性の<夢>を可能性のように語った。
希望のようなもの、の中に新潟があり、米があり、野菜があり、土があり、八百辰もあった。
可能性のようなもの、のなかに、超越論があり、共食共同体があり、反秩序の革命…があった、かも知れない。

2006年冬。
封建遺制を解体し、近代主義からも遠ざかりながら、
大きく身を開いて行くかに思われた時代の、
なお停滞する季節のそこのほうに、
わたしたちは一粒の、たった一粒の種を播いた。
なおあいまいな時代の沃野に、あいまいなままの思想を据え、
接木でない、実生の「幸せのKITCHEN」と「反秩序の革命」を、
横様に合体させた、で、あったろう。

食べ物は、どう考えても肉と野菜、である。
作り方は、いちから手作業、に落ち着くしかない。

そこから、古代から近未来までの時代を高速で行き来しながら、
国境を廃棄した人文地理的世界を横断して、行くのだ。
初発の夢は多く現実と綯い交ぜになり、
初発の現実は多く夢に吸い込まれる。
そのまま、そのままでね、
夢と現実との間に、再び国境が出現しないように。
一緒くたにして行こう。

理論も哲学も大方は役に立たない。
現実から、秩序を超えてゆこう。




Salsiccia サルシッチャの話4新型パニーノの試作

2008年04月14日

P1020433.JPG
パニーノである。
サルシッチャがうまく挟まりきれない。
落としそうで心配(実はサルシッチャだけを落としたお客様もいた、ごめんなさい)
そこで、挟みやすく、食べやすく、さらに美味しい新型パンを考案。
本日試作となったのだ。

P1020437.JPG

アップで。
表面からも染み出る脂と肉汁が肉の力を伝える。
この旨味をパンに浸み込ませるために、
サルシッチャだけを挟む。

salsicciaもパンも今までで一番だ…。
最高だと思っていたものを
軽々と超えてゆく…。
わたしたちは、
見果てぬものを、見果てぬものだけを、
追いかけてゆきたい。
この深みに、全世界よ、
停止せよ…。

野菜のパニーノイメージ.jpg
野菜のパニーノ。
パプリカのパニーノは、予想外に、
肉にも負けない食べ応えと旨味で力強い。
アスパラのパニーノは、
格段に甘くなった旬のアスパラと生ハムとパンが絶妙。
ただし良いアスパラでないとこうはならない。

■Salsiccia!DELI
 目黒区上目黒1-5-10 中目黒マンション112
 TEL&FAX 03-3794-3648
 URL http://www.3648.jp/
 営業時間 基本的には11:00〜23:00(15:00〜18:00は結構閉めてます)
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Salsiccia サルシッチャの話3 パンパンに詰まった中身と肉汁を!

2008年04月14日

P1020167.JPG
サルシッチャ断面写真である。
パンパンに詰まった肉と肉汁、である。

この前の写真が、どうも思うように写っていなかったので、再掲。

口の中に広がる肉汁のの旨味、としゃんとした塩のよさ、
噛めば噛むほど、深まる肉の旨味…。
ん〜、我慢できない。

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Salsiccia サルシッチャの話2

2008年04月03日

P1010801.JPG
肉汁飛び散るサルシッチャの断面。
708君は、イタリア・パンツァーノ村の、チェッキーニのもとで肉屋修行もしていた。今のところ日本唯一の、直伝のサルシッチャである。

サルシッチャは、そのまま、ソーセージスタイルで食べるだけでなくいろんなものになる。

P1010763.JPG
解体して、クロスティーニにした。
これはメニュー化されて、1個250円。
つまみにぴったり。

P1010764.JPG
拡大するといかにも肉。
かむほどに味が出る。

P1010941 - コピー.JPG
ある日のまかないから。
野菜と炊き合わせてもうまみが広がって、
ダイナミックかつヘルシー!?
残念ながらメニュー化されてはいない、が、
その日の都合と気分によっては食べられるかも。
サラダはありあわせの葉野菜だが、
ドレッシングは中屋シェフ作のシーザードレッシング。
濃くて、重くて、うまい。
メニュー化されている。

P1010942.JPG
拡大。
彩りきれいで栄養バランスも良い一品。

解体してパスタにもしたはずなのだが、
写真が見当たらない…。

また改めて、ということで(^^ゞ

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Salsiccia、サルシッチャの話1

2008年04月02日

昨日、保健所へサルシッチャ!デリの営業許可証をもらいにいった。
ちょっと行くのが遅くなっていたが、
営業許可証はめでたく手に入り、何の問題もないのであるが、
わたしの足に問題は起きた。
708君のチャリを拝借して駒沢通りを疾走していたら
ちょっとよそ見している間に手元が狂って、駐車しているバイクに左足を激突(>_<)
くだんのチャリはなぜか左へ左へと曲がりたがるのである。転びはしなかったのでまだ良かったが、しばらく動けなかった(涙)。
感覚が戻ってくるとともに、だんだん増してくる痛みにヒーヒーいいつつ、
そそくさと店をスタッフに託し自宅静養にいそしんだのではありました。(結構厚手の綿パンを通して、皮膚には3センチほどの裂傷、打撲部が熱を持ち、膝下がジーンとしびれている感じで、階段を下りるのがつらい!)

DSC01793.JPG
それはさておき、店名になっているサルシッチャSalsicciaである。

手元の辞書を引くと「(女性名詞)ソーセージ、腸詰」と出ている。
salsicciaioでソーセージ販売(製造業者)、
salsicciotto大型ソーセージ、である。
イタリアではsalsaがソースで、salsoが塩だから、なんとなくうまい塩味のようである。そもそもは人類共通のことで、塩がすべての味覚の基本で、塩の美味をアレンジしたものがソース(イタリアではsalsaね)である。

インターネットで見てみると、料理研究家の方や、イタリア在住の方が熱っぽく語っている。一番不足なく説明している感じのものはこちら、「サルシッチャとは、イタリアの生ソーセージになります。ベースは豚肉で、背脂やスパイス、ハーブが入っているんです。茹でてもよし、焼いても良し!皮をとって、中身だけでも色々なお料理に使えるんですよ〜」とのこと。
背脂が入ってうまいが、くどい?いやいや、くどいくらい旨いのである。ハーブも良く使うが、これもうまみを引き出し、香味をつけるのに欠かせない。
もうひとつこちらでは、イタリアの肉製品の説明がある。
日本を除く世界の人類は古代から肉を食べ続けてきたが、豚肉は牧畜のはじめから人類に貢献してきたきわめてエネルギー効率の良い家畜であり、イタリアなどのヨーロッパでも多用されている。そして冬の厳しい気候のなかで、保存食としての塩漬け、ハムつくりが行われ、salsicciaもそのひとつとして愛されてきたもの、だろう。

我がサルシッチャ初体験はたぶん1985年ころであるが、意識してこれがサルシッチャか、と思って食べたのは、去年2月26日のTESTKITCHEN第1回試作で708君がつくったもの、だ。
ちなみに708君はサルシッチャはソーセージではない、とこだわるのであるが、しかし生ソーセージとでも言ってみるしか、言葉がないこともまたかなり確かな話だ。

DSC01792.JPG

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真っ白で美しい背脂(ラルド)。これはやはり第1回試作でクロスティーににして食べたもの。もちろんこれだけでも十分旨い。

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当店のサルシッチャは、もちろん一から(豚肉のブロックの掃除解体から)、ほぼ毎日手作りしている。

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包丁でたたいてタタキ(ぶつ切り?)状態にして、イタリア・トスカーナの「世界一有名」な「詩人の肉屋」ダリオ・チェッキーニ直伝の塩と香草類(ダリオの香草ブレンドの塩は大切に保管され使われている)。すこし(1日ほど)日陰で風干しして味を落ち着かせ(ちょっと熟成もして)食べられる状態になる。

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グリルパンで焼いて、表面を固め、焼き目をつける。香ばしいにおいが広がって食欲を刺激する。

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焼いてそのまま食べると肉の味がストレートに伝わる。レアなら最も肉肉しいうまみがワイルドに堪能できる。
肉肉しいのが好きなわたしは残念だが、一応確実に火を通すためにも、当店では白いんげんのスープ煮込みに入れて一煮する。すると、豆にもうまみが伝わり、サルシッチャは少し上品になる。


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ナイフを入れると、肉汁がとびちる、肉の力の凝集だ。
Salsiccia!DELI夜のメニュー、サルシッチャと白いんげんの煮込み1200円。



■お店情報は
http://eurekablog.seesaa.net/article/91777836.html
http://test-kitchen.seesaa.net/
http://3648.jp/

posted by foody at 07:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | おいしい店(東京)

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